ギニアビサウ独立前とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ギニアビサウ独立前の意味・解説 

ギニアビサウ独立前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 00:42 UTC 版)

ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党」の記事における「ギニアビサウ独立前」の解説

PAIGC1956年マルクス主義者であったアミルカル・カブラルによって結成されポルトガル領ギニアおよびカーボベルデ諸島植民地独立の達成目的としていた。 1950年代ポルトガル領ギニアは、ポルトガル本国アンゴラモザンビークといったほかのアフリカ植民地とを結ぶ中継地として戦略的に重要な位置にはあったが、アフリカ植民地の中では最も貧しいところであった1959年ビサウ港湾労働者に対してポルトガル軍発砲し50人が殺害されたピジギリの虐殺起こり、これにより、PAIGC主導によるポルトガル領ギニアでの民衆独立運動活発化した。しかし当時まだポルトガル政府は、これらの運動PAIGCとは無関係考えており、特別な鎮圧などは行わなかった。 1961年に、アフリカポルトガル植民地独立運動展開する主要政党である、モザンビークモザンビーク解放戦線(FRELIMO)、アンゴラアンゴラ解放人民運動およびPAIGCが、ポルトガル植民地ナショナリスト組織協議会(Conferência das Organizações Nacionalistas das Colónias Portuguesas)を結成した。しばしば国際行事において、CONCP代表は、これら3政党代弁をしている。 PAIGC最初穏健な活動団体で、当初の策は、植民地からのポルトガル撤退平和的に要求することであった。しかしこれに失敗しPAIGCはより過激な独立運動展開するようになったポルトガル対す武力衝突1962年に、PAIGCゲリラによるプライア攻撃失敗という形で始まった物流困難な理由により、カーボベルデ諸島での武力衝突回避されゲリラ活動ギニア地域集中したカーボベルデにおいてはPAIGC秘密裏活動していた。軍事的にほとんど無力となり、アミルカル・カブラルは、軍事力が整うまで、サボタージュによる抵抗運動PAIGC主要な作戦にするよう要請した1963年カブラルポルトガルに対して全面戦争布告1月23日にはチーテにあるポルトガル基地大規模な戦闘が行われた。北部地域でも襲撃頻発、同じ月にはPAIGCだけではなくギニア国家独立戦線(FLING)によっても、フラクンダおよびブバ警察署襲撃された。 冷戦構造が進む中で、PAIGCソ連キューバおよび中華人民共和国から武器支援を受け、また、これらの国々ゲリラ兵士の訓練受け入れたPAIGC1964年に、解放されたカサカにおいて第一回議会実施したPAIGC政治的および軍事的に評価しゲリラ戦を担う人民革命軍(FARP)を再編したコモ島はPAIGC占領しており、ポルトガル空軍F-86セイバーによる空爆など、ポルトガル軍反撃受けて一番の激戦地となっていた。この戦争において、ポルトガルPAIGC過小評価しており、ポルトガル領ギニア駐留していた戦闘機軍隊アンゴラモザンビーク内戦のために派兵しており、PAIGCギニア統治を脅かす存在であるとポルトガル政府が気づいた時には、すでに手遅れであったポルトガル戦争末期まで、PAIGC民衆の関係の断絶試みた本格的にゲリラ策を講じたりせず、結果ポルトガル軍基地遠く離れて行動することは非常に危険なこととなっていた。コモ島を失ったポルトガルは、陸海空軍複合による奪還のためのトライデント作戦実行したPAIGC果敢に抵抗ポルトガル軍多大な犠牲払って巻き返した。71日間戦闘851回の出撃の後に、ポルトガル軍コモ島を奪還した。しかし作戦の遂行によって軍は消耗しており、その2ヵ月後にはふたたびPAIGCによって占領されることとなったPAIGC南部地方のカンタニェスとキタフィネ半島新しく拠点置いたため、ポルトガルにとってコモ島は戦略的重要性失った。この地方相当数ポルトガル軍ゲリラ包囲されることになった1967年までにPAIGCポルトガル軍駐屯地147攻撃しポルトガル領ギニア領域3分の2支配していた。その翌年、アントニオ・デ・スピノラが新しく植民地総督として着任しポルトガル新しい反ゲリラキャンペーンを展開したスピノラ大規模な建設政策進め学校病院住宅地建設し通信道路網を改善してギニアにおける大衆人気回復図った1970年ポルトガル空軍は、ベトナム戦争米軍使用したのと同様の兵器使用するようになったゲリラ発見した際にはナパーム弾使用され見えない伏兵に対して枯葉剤用いられた。スピノラ就任により、戦争転換期迎えたポルトガル軍戦闘勝利し始め、また隣国ギニア共和国コナクリ市を400水陸両用部隊攻撃しPAIGC捕らえられていた数百人のポルトガル人捕虜解放したソ連キューバナイジェリア経由して更なる武器支援行い空爆用のイリューシンIl-14機も提供した1973年1月にはアミルカル・カブラルは不満を持つ仲間によって暗殺されPAIGC衝撃吹き抜けることになる。1973年9月24日ギニアビサウ独立一方的に宣言された。11月国連総会では、ポルトガルによる不当な暴力占有弾劾され、完全な主権獲得と、ポルトガルによる承認先立ち国連により独立承認された。 ポルトガル領ギニア戦況ポルトガル軍有利に傾き始めたが、リスボン政府財政破綻危機にあり、1974年カーネーション革命の後、ポルトガル政府PAIGC交渉持ち始め9月10日独立承認アミルカル・カブラルの弟のルイス・カブラル初代大統領就任した11年に及ぶ戦争にて1,875人のポルトガル兵と約6,000人のPAIGC兵が戦死した

※この「ギニアビサウ独立前」の解説は、「ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党」の解説の一部です。
「ギニアビサウ独立前」を含む「ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党」の記事については、「ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ギニアビサウ独立前」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」からギニアビサウ独立前を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書からギニアビサウ独立前を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書からギニアビサウ独立前を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ギニアビサウ独立前」の関連用語

ギニアビサウ独立前のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ギニアビサウ独立前のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS