オデヲン座→松竹映画劇場の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:37 UTC 版)
「横浜オデヲン座」の記事における「オデヲン座→松竹映画劇場の時代」の解説
1911年(明治44年)12月25日、横浜市賑町(現在の同市中区長者町6-104)に、「オデヲン座」として創業した。日本最初の洋画専門館である。ドイツ人貿易商であるニーロップ商会のリヒァルド・ウェルデルマン(リチャード・ヴェルダーマン、リチャード・ワダマン)が創立し、第一次世界大戦勃発のため敵国人が経営者では不都合だと言うことで、1914年義弟に当たる平尾榮太郎の平尾商会が経営を引き受けた。平尾商会が輸入したフィルムを他館に先駆けて、同館で上映。当初はM・パテー商会(現在の日活の前身のひとつ)と特約を結んだ。同社が輸入する洋画を全国に先駆けて上映した有料試写施設となった。新作公開を意味する「封切り」は、この劇場から生まれた言葉だとされる。 賑町は芝居小屋がならぶ街で、「オデヲン座」の斜め前には「喜楽座」(現在の横浜日活会館)があり、並びには芝居小屋の「賑座」(1880年開業、1915年「朝日座」と改称、現存せず)があり、大通りを隔てた松ケ枝町(現在の同区伊勢佐木町2丁目)には、1908年(明治41年)開業の映画館「横浜電気館」(現存せず、電気館の項を参照)があった。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災して倒壊。館主の平尾榮太郎も被災して死去する。本来のオーナーであるウェルデルマンも帰国することとなり、1924年(大正13年)1月にクラリネット奏者の六崎市之介の経営に移って建て替え、経営も再建した。サイレント映画に管弦楽団の演奏を加え、人気となった。作家・北村薫の実父で、横浜市に生まれ育った宮本演彦(1902年 - 1992年)は、中学3年の頃からオデヲン座によく通っており、1926年(大正15年)に公開された衣笠貞之助監督作『狂つた一頁』も見ていたという。1929年(昭和4年)にはトーキーシステムを導入した。1936年(昭和11年)4月に鉄筋コンクリート造4階建てに改築され、定員1,245人の大劇場となった。 1940年(昭和15年)以降、洋画の規制が強化されたため経営は松竹に委託され、1942年(昭和17年)「横浜東亜映画劇場」と改称した。『爆撃飛行隊』(1939年)や『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)等の邦画を上映する事になり、次いで「横浜松竹映画劇場」となる。このとき、建物は買い戻し特約付きで松竹に譲渡した。 1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦の終戦後、同年9月30日に営業を終え、同年10月2日の総司令部設置以降の時期に進駐軍に接収され、「オクタゴンシアター」として運営される。1947年(昭和22年)1月1日、六崎は「横浜オデヲン座」を曙町に新設した。 ⇒ #曙町 1955年(昭和30年)11月に接収が解除された。六崎は先の買い戻し特約の期限が1950年(昭和25年)であったため松竹側と交渉に及んだが、松竹はこれに応じず同館は引き続き松竹が使用し、松竹映画封切館「横浜松竹映画劇場」としてふたたび運営した。1968年(昭和43年)6月、分割工事が行われ、2階以上は松竹東急洋画系の横浜ロキシー映画劇場となった。六崎が起こした松竹への建物買い戻し請求訴訟は1970年(昭和45年)に和解が成立し、これに伴い六崎側が敷地も購入して再開発を行うこととなり、1973年(昭和48年)2月22日をもって閉館した。なお「横浜松竹」の名称は同じ長者町にあった「横浜大映劇場」に引き継がれ、1980年代以降は「横浜松竹」「横浜セントラル」の2スクリーン体制に移行したが、みなとみらいの横浜ワールドポーターズ内にワーナー・マイカル・シネマズみなとみらい(現:イオンシネマみなとみらい)がオープンする等の事情により1999年(平成11年)9月10日をもって閉館している。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}ギャラリー 1933年(昭和8年)に横浜オデヲン座でも上映したRKO作品『キング・コング』の一場面。写真右側の木の枝の間にいるのが主演のフェイ・レイ。 東宝映画が製作し1942年(昭和17年)12月3日に「紅系」で公開された『ハワイ・マレー沖海戦』(監督山本嘉次郎)のポスター。館名リスト左端に「横濱東亜」の文字列が確認出来る。
※この「オデヲン座→松竹映画劇場の時代」の解説は、「横浜オデヲン座」の解説の一部です。
「オデヲン座→松竹映画劇場の時代」を含む「横浜オデヲン座」の記事については、「横浜オデヲン座」の概要を参照ください。
- オデヲン座→松竹映画劇場の時代のページへのリンク