ウェールズ南部とゲビア
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「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事における「ウェールズ南部とゲビア」の解説
ランダーは、短い間ウォリックの実家に戻りつつも、ウェールズ南部に居を構えた。エールマー卿(英語版)とその姉妹ローズたち一家と友好を結んだのはスウォンジーにおいてであった。ローズは、後にランダーの詩『ローズ・エールマー』によって永遠に名の残すことになる。ゴシック小説家クララ・リーヴ(英語版)の『The Progress of Romance』を彼に貸し与えたのはローズである。 彼の詩『ゲビア』(Gebir)は、その小説の中の『The History of Charoba, Queen of Egypt』に触発されたものである。ローズはおばに従った1798年インドに出発し、その2年後にコレラで死亡した。 Ah, what avails the sceptred race,Ah, what the form divine! What every virtue, every grace!Rose Aylmer, all were thine. Rose Aylmer, whom these wakeful eyesMay weep, but never see, A night of memories and of sighsI consecrate to thee. (大意)徳も粋もすべてを備えたローズ、高貴な家柄や神のような姿があなたに加えるものは何もない。もう会えないローズ、私はあなたのために涙を流して、ため息とともにあなたのことに思い巡らすこの夜をあなたに捧げる。 ロバート・サウジー 1798年、ランダーは『ゲビア』を出版、これが彼の名声を確立した。『ゲビア』は、敵であるエジプトの女王カロバと恋に落ちたスペインの王子の物語である。ロバート・サウジーは、「言語からなる最も繊細な詩に属する」と『ゲビア』を評し、その匿名の作者を知りたがった。シドニー・コルヴィン(英語版)は、「『ゲビア』の詩句の思想と言語双方の高邁さはミルトンに匹敵する」と、また、「傲慢なまでの豪華さと重厚なまでの集中というランダーの作品の特徴は、ワーズワースやコールリッジの作品においても見いだせない」と書いている。 ジョン・フォースター(英語版)は、「スタイルと表現手法がこの作品の魅力だ。この作品に備わった鮮やかさは、イメージの豊かさ、言葉の雰囲気を通じても認められる。これこそが『ゲビア』の傑出した個性だ」と書いている。 一方、ランダーにとっては常に手厳しい批判者であったウィリアム・ギフォード(英語版)は、この作品を「理解不能のゴミの寄せ集めだ。狂ってぼんやりとした頭脳から出た不快で卑劣な分泌物だ」としている。 続く3年の間、ランダーは特定の居を定めず、主としてロンドンで過ごした。古典学者のサミュエル・パー(英語版)と友人となった。彼はウォリックの近くのハットンに住んでおり、ランダーを一人の人としてもラテン語の書き手としても認めていた。 ランダーは、ふざけた題材をそれと知らせず公衆にさらすための表現する手段として(Siquid forte iocosius cuivis in mentem veniat, id, vernacule, puderet, non-enim tantummodo in luce agitur sed etiam in publico)ラテン語を好んで用いた。 英国の名誉毀損法を逃れるにもラテン語は有利であった。パーは、チャールズ・ジェームズ・フォックスのために組織を固めたロバート・アデア(英語版)をランダーに紹介し、アデアはモーニング・ポスト(英語版)紙とザ・カーリア(英語版)紙にピット内閣を攻撃する記事を書くよう協力させた。ランダーは1800年、『アラビアとペルシアの詩』(Poems from the Arabic and Persian)とラテン詩のパンフレットを発表した。この間、彼はアイザック・モカッタに会い、芸術への関心を刺激され、影響を受けたが、モカッタは1801年に死んだ。1802年にはパリに赴き、狭い居宅でナポレオンに面会したが、このことは、自ら『ゲビア』で示したナポレオンへの賞賛を撤回するに十分な出来事であった。 同じ年、クリューサーオールとポカイア人の物語詩を含む『ゲビア作者による詩』(Poetry by the Author of Gebir)を発表した。コルヴィンは、無味乾燥な詩句にあってクリューサーオールこそが白眉だと評した。 弟のロバートは『ゲビア』の改訂と増補を助け、1803年に第2版が出版された。同じころ、ランダー自身は全編ラテン語による詩を発表した。広く読者一般に対してというよりは、パーに対して問うたものであり、スウィンバーンは、これについて、詩としての勢いや抑揚とか言語としての力強さや完成度を英語版と比較されるべきものだとしている。 ランダーは、たびたび借金のために旅し、バースで多くの時間を過ごした。ここで、ソフィア・ジェーン・スイフトに出会った。彼女は既に婚約しており、ランダーの熱烈なアプローチにもかかわらず、婚約者と結婚した。ランダーは、彼女をアイアンシーと呼び、最大級に美しい恋愛詩を彼女に書き送った。1805年にランダーは父を亡くして財産を相続、バースに居を構え、贅沢に暮らした。 1806年にはアイアンシーとアイオンに向けた詩を収録した『シモニデア』(Simonidea)を出版した。この詩集にはウィリアム・ハーバートの『Select Icelandic poems』に取材した物語詩『グンラウクとヘルガ』(Gunlaug and Helga)も収録されている。1808年、ブリストルでサウジーと対面することができた。その前年、彼は湖水地方旅行中にすれ違っていたのである。互いの作品を鑑賞していた二人の詩人は暖かい友情を結んだ。匿名で書かれた『Guy's Porridge Pot』について攻撃されていたパーを擁護するために、ランダーは『鈍牛』(The Dun Cow)という作品を書き、パーの作品であることをむきになって否定した。
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