ウェールズ宮廷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 08:24 UTC 版)
アッサーについて知られている内容は、ほとんどアルフレッドの伝記によるものだが、その中で彼が自身に触れている事柄も、アルフレッドがいかに自分を宮廷学者として迎えたかといったことくらいである。アルフレッドは学問の価値を高く評価し、ブリテン島中や大陸からも多くの学者を募集していた。彼がいかにしてアッサーを知ったかは分かっていないが、おそらく彼が宗主権を得たウェールズ南部の国を通じて情報を得たものと考えられる。885年、アルフレッドはグウィリシング王ハウェル・アプ・リースとダヴェド王ヘヴァイズを従属させた。この事件について、アッサーは詳細な記録を残している。885年のハウェルの憲章に署名者の一人として並んでいる「アッサー」は同一人物だと考えられる。そのため、南ウェールズの君主たちとアルフレッドの関係を通じてアルフレッドがアッサーを知った可能性が高い。 アッサーは、サセックスのディーン(現ウェスト・サセックスのイースト・ディーンおよびウェスト・ディーン)におけるアルフレッドとの初対面の様子を詳しく物語っている。887年11月11日、聖マルティヌスの日(これはアッサーの歴史記述の中で唯一具体的な日付を記した箇所である)、アルフレッドはラテン語を学ぶことを決心した。ここから逆算すると、アッサーは885年前半にアルフレッドに登用されたことになる。 アルフレッドの求めに対し、アッサーはこれを受けるかどうか考える時間を求めた。聖デイヴィッド大聖堂での現在ある地位での責任を投げ出すことにためらいがあったからである。アルフレッドはそれを了承しつつ、アッサーに「セント・デイビッズとアルフレッドの宮廷に半分ずつ滞在する」という妥協案を示した。アッサーは再度考える時間を求め、最終的に6か月後に戻ることを約束したうえでウェールズに帰った。しかしウェールズへの道中でアッサーは熱病に倒れ、カイルウエントの修道院に12か月と一週間とどまった。アルフレッドがアッサーの遅延の原因を調査し始めたので、アッサーは快復すればアルフレッドのもとに戻ると約束した。886年に快復したアッサーは、セント・デイビッズとアルフレッドの宮廷で半々に過ごすというアルフレッドの提案を受け入れた。セント・デイビッズの人々も、アッサーがアルフレッドに対して影響力をふるうようになれば、度々セント・デイビッズを襲ってくるヘヴァイズ王の手から修道院や院領を守れると考え、アッサーの出仕を歓迎した。 アッサーの他にも、アルフレッドはサン=ベルタン修道院のグリムバルドやザクセンのヨハンなどの高名な学者を宮廷に招いている。この3人の出仕時期は1年も離れていない。886年4月から12月にかけて、アッサーはレオナフォード(Leonaford)という地に滞在した。レオナフォードは、おそらく現在のウィルトシャーにあるランドフォードと同じだと考えられている。アッサーはここで、文字を読めないアルフレッドに書籍の読み聞かせをした。12月にアッサーはウェールズに戻る許可を得ようとしたが認められず、代わりにクリスマス・イヴにコングリーズベリーとバンウェルの修道院、絹の外套、「頑健な男に匹敵する重さ」の大量の香木を贈られた。アルフレッドはアッサーに、この新領を訪れたうえでセント・デイビッズに代えることを認めたのである。 これ以降、アッサーは約束通りウェールズとアルフレッドの宮廷を行き来する生活を送るようになった。彼はウェールズでの行動について何も書き残していないが、イングランドではアッシュダウン、Cynuit (カウンティズベリー)、アテルニーなど数々の戦場を訪れた。アッサーの記録からも、彼がアルフレッドと共にかなり長い間いたことは明らかである。彼はアルフレッドの義母エアドブルフに様々な場面で出会っており、またアルフレッドがたびたび狩りに出かけたことも記録している。
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