ウェールズ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:25 UTC 版)
「エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「ウェールズ侵攻」の解説
エドワード1世が即位した頃のウェールズの統治者はウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)サウェリン・アプ・グリフィズだった。エドワード1世はサウェリンに対して二度招集をかけて臣下の礼をとるよう求めたが、サウェリンは招集に応じなかった。エドワードは1272年にサウェリンを大逆者と宣告した。 この宣告を受けてサウェリンに領土を奪取されていたイングランドのウェールズ辺境伯(英語版)たちがウェールズ侵攻を展開するようになった。またグウィネズ地方(サウェリンの直接統治下)以外のウェールズ人領主の取り込みも図り、サウェリンをウェールズ内で孤立に追いやった。そのうえで1277年7月にチェスターから1万5000人の軍勢を率いてウェールズ侵攻を開始した。 これに対してサウェリンはゲリラ戦で抵抗するも、結局同年秋にはイングランドへの全面屈服のアベルコンウィ条約を締結することを余儀なくされた。この条約によりサウェリンは他のウェールズ人領主への宗主権を失い、グウィネズの統治権も兄弟で分け合い、ウェールズ内のエドワード1世の王領も大幅に拡大されることになった。さらにもしサウェリンが子供のないまま死去したらその所領はエドワードに没収されることも盛り込まれた。 この条約でウェールズのほぼ全土を手中にしたエドワード1世は、イングランドの法を押し付けて、ケルトの法やウェールズ人の感情を無視した統治を行った。特に巡回裁判制度を持ち込んだのはエドワード1世の統治力を著しく高めた。しかしその過酷な統治はウェールズ人の反乱を誘発し、やがてサウェリンもそれに参加した。これを受けてエドワード1世は1282年から1284年にかけて再度ウェールズ侵攻を行った。この戦いの最中にサウェリンは病死し、ウェールズ大公の地位は弟ダフィズ・アプ・グリフィズ(英語版)が継承したが、彼も1283年9月30日に捕らえられて大逆罪で死刑宣告され、10月3日に過酷な首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑された。こうしてウェールズの独立をかけた最後の戦いは失敗に終わり、以降ウェールズが政治的独立を手にすることは二度となかった。 1301年になってエドワード1世は皇太子エドワード(後のエドワード2世)にウェールズ大公の称号を与えた。ウェールズの称号を残すことでウェールズ人の反感を和らげる目的だったという。以降イングランド・イギリス王室の皇太子はこの称号を名乗るのが慣例となり、その伝統は現在に至るまで続いている。またウェールズの征服でイングランド軍にウェールズのロングボウの用法が入り、エドワード1世は歩兵の特殊兵器としてスコットランド侵攻でこれを活用する。
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