アトランタオリンピックまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:27 UTC 版)
「谷亮子」の記事における「アトランタオリンピックまで」の解説
オリンピック後最初の大会となった12月の福岡国際では、準決勝で昨年のアジア選手権で敗れた湯を払腰で破って雪辱すると、決勝でもフランスのシルビー・メルーを背負落一本で下してオール一本勝ちで大会3連覇を達成した。 1993年の2月にはフランス国際に出場して、3回戦でフランスのフレデリク・ジョシネに効果で勝った以外は、決勝でサボンを崩上四方固で破ったのを始め全て一本勝ちして優勝を果たした。 3月には全国高校選手権に出場して、準決勝までオール一本勝ちで勝ち上がり、決勝では土浦日大高校1年の磯崎祐子に3-0の判定勝ちで優勝を飾った。 3年の時には5月に上海で開催された東アジア競技大会の決勝で、地元の湯から背負投で有効を取って優勝を果たした。 7月の体重別では決勝で長井を3-0の判定で破り世界選手権代表に選出された。 7月には団体戦の金鷲旗にも福岡工大附属高校の一員で参加して、1 - 2階級上の選手を相手に3戦全勝した。 10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では、準決勝でイタリアのジョバンナ・トルトラを出足払で破ると、決勝でも李愛月を盛んに攻め込んでポイントこそ取れなかったものの3-0の判定で破り、史上最年少の18歳1か月で世界チャンピオンになった。この際に、「世界選手権とか世界的な大会で優勝がなかったから最高にうれしい」と語った。 続く国体少年女子の部では、柳川高校2年の阿武教子、三池高校2年の杉野美紀子とともに福岡県チームの一員で参加して、オール一本勝ちを成し遂げてチームの優勝に貢献した。 12月の福岡国際では決勝でロシアのタチアナ・クフシノワを合技で破り優勝を果たした。 1994年になると、この年から女子柔道部を新設することになった帝京大学の文学部国文学科へ進学した。監督は東福岡柔道教室時代の恩師だった稲田が務めることになった。入学の際には、「先生方から色気づいたら弱くなると言われているんで柔道一筋にやりたい」と決意を語った。 5月の体重別決勝では、ノバックを育てた村上が帰国後に新たな打倒田村の秘密兵器として養成してきたミキハウスの衛藤由佳を大外刈と袖釣込腰の合技で破って優勝し、アジア大会代表に選ばれた。 10月に広島で開催されたアジア大会では、決勝で李愛月を3-0の判定で破って優勝を果たした。 11月には強化選手選考会に出場して、決勝で長井から効果を取って優勝を果たした。 12月の福岡国際では決勝で長井から有効を2つ取って優勝して、バルセロナで敗れてから続いてきた連勝記録を50に伸ばした。 1995年5月の体重別では、決勝で長井から大外刈で有効を取り優勝して世界選手権代表に選ばれた。 8月に地元の福岡で開催されたユニバーシアードでは、決勝でサボンを払腰で破ったのをはじめ、オール一本勝ちで優勝を果たした。 10月に幕張で開催された世界選手権では、3回戦でサボンから小内巻込で技あり、準々決勝でもジョシネから効果を取って勝つと、準決勝では映画ホーム・アローンに出演したこともある女優で、なおかつ前年の世界ジュニアチャンピオンでもあるアメリカのヒラリー・ウルフを開始早々の体落で破り、決勝では前回大会に続く対戦となった李愛月に対して、先にポイントを取りながらなお攻め続け、ラスト1秒に双手刈で一本を取って優勝して、大会2連覇を達成した。 12月の福岡国際でも決勝でサボンを縦四方固で破るなどオール一本勝ちで優勝を果たした。 1996年3月の体重別では決勝で長井から効果を取って優勝して、アトランタオリンピック代表に選ばれた。 7月のアトランタオリンピックでは、サボンが強敵になってくるものの田村のナンバー1の座は揺るがず、今度こそ金メダルと期待された。その初戦ではベラルーシのタチアナ・モスクビナを体落、2回戦ではホンジュラスのドラ・マクドナルドを背負投、3回戦ではトルトラを袖釣込腰の技ありでそれぞれ破ると、準決勝では最大のライバルと目されたサボンを背負投で破った。そして決勝ではワイルドカードで出場してきた全く未知の相手である北朝鮮のケー・スンヒと対戦することになった。その決勝ではケーが暗黙のルールを破って柔道衣を左前に着ていたために思うように柔道衣を掴めず攻めあぐねた。また、ケーの力強い組み手の前にいつものように素早い動きで相手を撹乱するところまで持っていけず膠着状態となった。そして試合終盤には払腰を小外刈で切り返されて効果を取られると、その直後の背負投を偽装攻撃と見なされて指導まで与えられて敗れ、前回大会に続いて銀メダルにとどまった。この敗戦によって、前回のバルセロナオリンピック決勝で敗れてから続いてきた連勝記録も84でストップした。なお、アトランタで使用された畳は投げられて勢いがついた場合は1m近くも滑る、素人が製造したかの如き畳と酷評されるような代物であったという。そのため、体の小さい田村は相手にコントロールされた場合、思い切った技を仕掛けることができなかったのが敗因の一つだったと全日本女子代表チーム監督の野瀬清喜は述べている。本人は試合直後のインタビューで次のように語った。「なぜか決勝戦だけ、気合が入らなかった。集中力がなかった」「みんなが応援してくれるから絶対に勝たなきゃいけない。それで硬さがあったのかもしれない。でも人間ですよね。私も人間だなと思いました。人間でよかった」。何れにせよ、今回の敗戦は田村にとってあまりにも衝撃的で、小学校2年の時に柔道を始めて以来培ってきた喜びや勇気、自信が根本的に打ち砕かれた気分に陥り、次は2000年シドニーオリンピックなどと軽々しく口にはできない状態が暫く続いた。そんな時、親交のあった1988年ソウルオリンピック(公開競技)61kg級銅メダリストの持田典子から渡された手紙にあった「神様は乗り越えられない人には試練を与えない」との文面に感銘を受けた。「柔道をやれるときは限られる。ここでやめたら後で悔やむだろう。自分は試練を乗り越えられる。わずかな可能性を信じて努力してみよう。」と思い至り、立ち直るきっかけをつかめた。さらにその後のインタビューでは次のように述べた。「アトランタでは準決勝でサボンに一本勝ちした時、これでもう優勝は決まったようなものだと自信満々になったのは間違いだった。これを教訓にそれからは対戦が予想される全ての選手をライバルと思うようになった」「(オリンピックで)金メダルを取るまで私はあきらめない。自分が完璧になったとき、最高の喜びが待っていると思います」。
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