日本国内の影響
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「モスクワオリンピック」の記事における「日本国内の影響」の解説
種目によっては世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。 団体競技の影響 男子体操 - ローマオリンピックから続けた5連覇が自動的に途絶えた金メダル奪回は、2004年のアテネオリンピックにてようやく実現。 バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得に至っていない。 女子バスケットボール - モントリオールオリンピック以来の2度目の出場は1996年のアトランタオリンピックまで20年要した。 男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催の2020年の東京オリンピックまで出場権獲得ならず。 個人競技の影響 赤井英和 (ボクシング) - 補欠として代表の可能性を残していたが、完全消滅。その後の大会に出場し続けた後でプロ転向。 香月清人 (柔道) - 前年の世界柔道選手権71kg級で優勝。代表が内定していたが、ボイコットを契機に一度は現役引退。その後、大阪府警の柔道師範として、万余の警察官を指導。 坂本典男 (自転車競技) - 競輪に転向。ロサンゼルスオリンピック(以下、ロサンゼルス)では弟である坂本勉に託し銅メダルを獲得。 瀬古利彦 (マラソン) - その後、ロサンゼルス、ソウルオリンピック(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たしたもののソウルで9位にとどまる。 高田裕司 (レスリング) - 現役引退。後に復帰し、ロサンゼルスで銅メダルを獲得。 長義和 (自転車競技) - 1977年に日本競輪学校を合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため、競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を引退した。その後、回りの空気を読んで復帰して様々な大会に出場。 津田真男 (ボート、シングルスカル) - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった。その後、大会で開催されたレガッタの常連となった。 長崎宏子 (水泳) - 当時11歳。夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だったが幻に終わった。その後、ロサンゼルス、ソウルに出場したが、いずれもメダル獲得は果たせず。 藤猪省太(柔道) - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。このまま現役を引退し、現在まで指導者となった。 宮内輝和 (レスリング) - 大相撲に転向。 谷津嘉章 (レスリング) - プロレスに転向。1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。 山下泰裕 (柔道) - 1984年のロサンゼルスで金メダルを獲得。 テレビ朝日 1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った。ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から、現在フリーとなった古舘伊知郎、南美希子、佐々木正洋を始め、宮嶋泰子、吉澤一彦、渡辺宜嗣といった、現在でも現場で活躍するメンバーが多く輩出された。 その後のJOCの対応 不本意ながら政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCはその基盤強化の必要性を痛感し、1989年に日本体育協会から独立した財団法人化が実現した。
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日本国内の影響
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「1980年モスクワオリンピック」の記事における「日本国内の影響」の解説
種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。 団体競技の影響 男子体操団体総合 - 1960年のローマオリンピックから1976年のモントリオールオリンピック(以下モントリオール)まで続いた5連覇が自動的に途絶え、金メダル奪回は2004年のアテネオリンピックにて実現した。 バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得には至っていない。 男子ハンドボール - 1984年のロサンゼルスオリンピック(以下、ロサンゼルス)、1988年のソウルオリンピック(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たすも、モントリオールの9位には及ばず。その後、自国開催の2020年東京オリンピック(以下、東京)まで33年間出場が途絶えた。 女子バスケットボール - ボイコットへ動き出していた最中に世界予選出場も敗退。モントリオール以来の2度目の出場は1996年のアトランタオリンピックまで20年を要した。 男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催の東京まで出場権獲得はならなかった。特に男子バスケットボールは開催国枠も失う危機に見舞われた。 個人競技の影響 赤井英和 (ボクシング) - 補欠として代表の可能性を残していたが完全消滅。その後、大学生の身分のままプロに転向した。 石原敬士(クレー射撃) - 1968年のメキシコシティーオリンピックを協会の不祥事で出場を閉ざされて以来機会に恵まれず、念願の代表選出だったが、これも幻に終わった。2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、次女である石原奈央子(英語版)がオリンピック出場を果たした。その後、東京の聖火ランナーに内定し、COVID-19の影響による開催延期を経ながらも2021年にランナーとして参加、延べ53年越しで祈願のオリンピック関係者となった。 香月清人 (柔道) - 前年の世界柔道選手権71kg級で優勝。代表が内定していたがボイコットを契機に一度は現役引退。その後、大阪府警の柔道師範として警察官を指導していたこともあった。 蒲池猛夫(ライフル射撃) - 現役引退。後に復帰し、ロサンゼルスにて日本最年長記録で金メダルを獲得する。2014年に死去。 具志堅幸司(体操競技) - ロサンゼルスに出場し、金メダルを獲得。 坂本典男・坂本勉 (自転車競技) - 自転車初の兄弟五輪代表選手となるはずだったが、幻に終わった。その後、典男は競輪に転向。勉はロサンゼルスで日本自転車初メダルとなる銅メダルを獲得している。 瀬古利彦 (マラソン) - その後、ロサンゼルス、ソウルと2大会連続出場を果たしたものの、ソウルで9位にとどまった。 高田裕司 (レスリング) - 現役引退。後に復帰しロサンゼルスで銅メダルを獲得したが、「優勝したら表彰台から金メダルを投げていた」と後年語っている。 長義和 (自転車競技) - 1977年に日本競輪学校に合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場は叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を退いた。 津田真男 (ボート、シングルスカル) - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった。その後、国内各地のレガッタに出場した。 長崎宏子 (水泳) - 当時11歳。夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だったが幻に終わった。その後、ロサンゼルス、ソウルと出場したが、いずれもメダル獲得は果たせなかった。 藤猪省太 (柔道) - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。その後指導者となり、2008年の北京オリンピックでは審判員としてオリンピックの舞台に立った。 宮内輝和 (レスリング) - 大学を中退し、大相撲に転向。 谷津嘉章 (レスリング) - プロレスに転向。1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。 山下泰裕 (柔道) - ボイコット決定のショックから翌日に全日本体重別選手権で骨折を追う不運も重なるが、当時の東海大学総長松前重義の勧めで現地観戦。ロサンゼルスに出場し、金メダルを獲得。現在は日本オリンピック委員会の会長を務める。 テレビ朝日 1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った。ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から古舘伊知郎、南美希子、佐々木正洋、宮嶋泰子、吉澤一彦、渡辺宜嗣といった、のちに活躍することになる局アナを多く輩出した。 その後のJOCの対応 不本意ながら、政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCは政府(文部省)から自立する形での組織の基盤強化の必要性を痛感し、1989年に日本体育協会から独立、財団法人としての活動を行うこととなった。
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