でたらめな農業政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:27 UTC 版)
「中華人民共和国大飢饉」の記事における「でたらめな農業政策」の解説
集産主義に加えて、ロシアの農学者トロフィム・ルイセンコが唱えた疑似科学に基づいて、中央政府は従来の農法から逸脱した指導を行った。「農業の八字憲法(中国語版)」なる方針が打ち出され、"土・肥・水・種・密・保・管・工"が掲げられた。これは、農地改良・施肥・水利の確保・種子改良・作物の保護・耕地の管理・農具改良、そして「密植」によって農業増産を目指すというものであった。 「密植」とは、苗を3倍の密度で植えた後、次に2倍にするというものであった。この理論では、同じ種の植物は互いに競合しないとされ、県が定めた畝や株の間隔の指示に違反した田圃の苗は全て引き抜かれるなど、人民公社が徹底して実践した。当然、過度の密植は苗同士を競合させ、風が通らず日光も差し込まない苗は実を結ばず、種さえ回収できない惨憺たる結果となった。 また、毛は「深耕」を推奨した。「深耕」とは、ルイセンコの同僚として知られているテレンティ・マルツェフの考え方に基づいていた。彼は、耕起深度を通常の15~20センチではなく33~66センチにするよう、中国全土の農民に指導した。この深耕理論では、最も肥沃な土は地中の深いところにあり、異常に深く耕せば根の成長が促進されるとされていた。党の地位に眼がくらんだ幹部たちに駆り立てられ、農民たちは農具もろくにない状態で「深耕」を行った。しかし、実際には、地中にあった作物の育成に役立たない岩・土・砂が浅い土壌に押し上げられ、代わりに肥沃な表土が埋められたことから、苗の成長を著しく阻害することとなった。安徽省のように表土が薄いところでは「深耕」によって減殺された地味がなかなか回復せず、農民の女性たちが深い水田の中で腰まで泥に浸かりながら作業を強いられた結果、南部では多くが感染症に罹患した。 ルイセンコは化学肥料を排除していたため、共産党政府は化学工場への出資をやめた。ロシア人たちは、土9に対して下肥1の割合が理想の配分であると提唱したため、中国全土の農民がこれに従わされた。地方幹部たちは躍起となってモデルケースとなる農地を演出しようとして肥料の争奪戦を行い、化学式もわからず成分表も覚えられないような農民学者が細菌から肥料をつくる方法を開発したと主張した。海から引き上げてきた海藻・ごみの山から探し出してきた生ごみ・煙突からかき集めてきたすすなど、ありとあらゆるものが畑に投げ込まれ、夜中になっても家畜や人間の糞尿を畑に運ぶ人の列が絶えなかった。泥と藁で作られた建物の壁も栄養素とみなされ、当初は古い壁や廃屋が解体されていたのがエスカレートして計画的に家並みごと破壊されるようになり、瓦礫が畑にばらまかれ、撒き散らされたガラス片によって一部の畑は裸足で歩けなくなった。糞尿のみならず人間の毛髪までもが肥料の素とみなされ、広東省の一部の村の女性達は剃髪を強制され、拒否すれば共同食堂への出入りを禁じられた。糞尿の収集は、人糞を不浄のものとして嫌う部族にも強制され、作業は懲罰班の仕事とされた。人肉を茹でて肥料にする方法が考案され、子供が豆を数粒盗んだ程度で殴殺された親の遺体が切り刻まれて畑に撒かれた。故人の亡骸も墓を暴いて肥料にされ、墓石は建材にされた。 民兵・製鋼・灌漑事業・鉄道建設・地元工場に多くの男性労働者が投入され、農業の労働力は大幅に低下したが、毛とその側近たちは"画期的"な手法である「密植」「深耕」がこれを補うものと信じていた。多くの農民たちには、これらの施策が何をもたらすのかわかりきっていたことであったが、以前の反右派闘争で何が行われてきたか目の当たりにした彼らはあえて口を挟もうとはしなかった。
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