その他の国宝仏像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 23:24 UTC 版)
木造観音菩薩立像(九面観音) 国宝。唐時代。像高37.1センチ。ビャクダン材、素地仕上げで細密な彫技をみせる仏像で、作風・技法から日本製ではなく、中国唐時代の作品とみられる。天平19年(747年)の『資財帳』に「檀像 壱具 右養老三年歳次己未従唐請坐者」とあるのが本像に当たるとみられる(「檀像」はビャクダン製の像の意)。像容は十一面観音に似るが、本体の顔と頭上の小面を合計しても9面しかないため、九面(くめん)観音と呼ばれている。日本における十一面観音像は、玄奘訳の『十一面神咒心経』の説くところにしたがい、頭上に菩薩相3面、瞋怒相(しんぬそう)3面、狗牙上出相(くげじょうしゅつそう)3面、大笑相1面を表し、頂上仏面と合わせて11面とするのが通例である。これに対し本像は菩薩相、瞋怒相、狗牙上出相が各2面、大笑相が1面で、これに頂上仏面、本面を合せても9面しかなく、図像的に他に例を見ない像である。ビャクダン材の一木造で、頂上仏面と頭上の三面頭飾を矧ぐほかは、持物、瓔珞、耳朶から下がって揺れ動く耳飾りに至るまで一木から彫出している。瓔珞の一部は体との間に隙間を設け、浮き上がるように彫出されている。 銅造観音菩薩立像(夢違観音) 国宝。飛鳥時代後期(白鳳期)。像高86.9センチ。大宝蔵院に安置する。この像に祈念すると悪夢を吉夢に変えてくれるとの伝承があり、夢違観音(ゆめちがいかんのん)と通称される。「夢違」は寺では「ゆめちがい」と読んでいるが、文献では「ゆめたがい」「ゆめたがえ」と読む場合もある。像自体は7世紀末から8世紀初頃の作であるが、台座は元禄7年(1694年)、法隆寺の江戸出開帳に本像が持ち出された時に作られたものである。面相は、眉の線がそのまま鼻梁につながっている点、二重瞼とする点などは他の飛鳥時代後期(白鳳期)の仏像に共通するが、鼻梁が幅広く、眉と眼との間隔がさほど広くなく、頬から顎にかけての肉取りが引き締まるなど、全体に大人びた表情になっており、この時代特有のいわゆる童子形像とは一線を画す。頭上には髻を結い、三面頭飾を付ける。多くの菩薩像は両肩に垂髪を表すが、本像にはそれがない。天衣は飛鳥時代前期の菩薩像では膝前で交差するものが多いが、本像の天衣は上下2段にU字状に掛かる、より自然な形状になっている。両腕から体側に垂れる部分の天衣は左右とも欠失している。正面の天衣の下を瓔珞がくぐっている様を天衣の凹凸によって表すなど、写実的表現に意を用いている。浅湫毅(あさぬまたけし)は『諸堂開帳霊仏霊宝絵像等目録』という元禄3年(1690年)の記録に「夢違之観音」とあるのが、文献上の本像の初出であるとする。本像は近世には東院絵殿に安置され、それ以前の所在は不明とされていたが、浅湫は上記の元禄3年の記録に「夢違の観音は、往古此殿(注:絵殿)にこれ有り、中比(なかごろ)金堂の厨子の内に納め置く」とあるのに着目し、本像はもとは金堂にあったもので、古記録に見える金堂の「中大厨子」(現存せず)に納められていたものであろうと述べている。 木造地蔵菩薩立像 国宝。平安時代。像高173.0センチ。もと大神神社の神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ)に伝わった像で、明治初年の神仏分離の際に法隆寺に移された。昭和期には金堂の北面に安置されていたが、大宝蔵院開館後はそちらへ移されている。カヤ材の一木造で、本体から台座蓮肉部までを一材から木取りし、内刳はない。錫杖を持たない形の地蔵像で、右手は下げて掌を前に向け、左手は肩の辺に上げて蓮茎を持つ。体の奥行が厚く、大波と小波を交互に彫る翻波式衣文を刻む点、腰から大腿部にかけての衣文をY字状に表して量感を強調し、大腿部の隆起した部分には衣文を刻まない点など、平安初期彫刻の特色が顕著で、制作は9世紀と推定される。
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