『カンポンボーイ』以後
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「ラット (漫画家)」の記事における「『カンポンボーイ』以後」の解説
1981年には Town Boy『タウンボーイ』が刊行された。『カンポンボーイ』の続編として、故郷の村落から都市に移り住んだ主人公の思春期を描くものだった。風刺漫画作品集もさらに2冊刊行され(With a Little Bit of Lat および Lots More Lat)、筆名はさらに高まった。1984年、世間の注目から逃れたいという望みもあって『ニュー・ストレーツ・タイムズ』の職を辞し、フリーの立場で Scenes of Malaysia Life を描き続けることになった。ラットはカンポンボーイ社を設立して自作の出版やキャラクターの商品化を管理しはじめた。2009年、カンポンボーイ社はテーマパーク開設のプロジェクトでサンリオおよびヒット・エンターテインメントと提携した。2012年8月にはジョホール州イスカンダル・プテリ(英語版)にマレーシア初の屋内テーマパークであるプテリ・ハーバー・ファミリーテーマパークが開設され、ハローキティやボブとはたらくブーブーズなどのアトラクションフロアと並んで、テーマレストラン Lat's Place が置かれた。内装はマレーシアの村落をモデルにしており、『カンポンボーイ』のアニメーションが流れる中、キャラクターの扮装をしたキャストの給仕で食事を行うことができた。 ラットは印刷媒体以外での表現にも挑戦している。1993年には、Unescoが企画した短編アニメーション映画『ミナの笑顔 (Mina Smiles)』の制作に参加した。東南アジアの農村に住む若い母親を主人公として識字教育を啓発する作品だった。その後、ラットは個人的な懸念に押されて再びアニメーション製作に進出した。1980年代と90年代に放映された西洋のアニメーションが好ましくない文化的影響を及ぼしていると考え、マレーシアの子供に固有の価値観を伝える番組を作ろうとしたのである。その結果、ラットの代表作を原作とするテレビシリーズ『カンポンボーイ』(1997年)が誕生した。同シリーズは全26話が製作され、マレーシア内外で放映されて技術的にも内容的にも好意的な評価を集めた。1999年にはアヌシー国際アニメーション映画祭において最優秀テレビシリーズ賞を授賞した。とはいえ、『ザ・シンプソンズ』との類似や、マレーシア固有とは言えない英語の使用を指摘する声もあった。ラットが最後にアニメーションに関わったのは2009年のことである。ペトロナス・フィルハーモニック・ホールで行われたアニメーション・ミュージカル公演 Lat's Window to the World において、ラットは『カンポンボーイ』のキャラクターを使った短いシーン3編の制作に参加した。完成したアニメーションはマレーシア・フィルハーモニー管弦楽団の演奏とともに上映された。ラットの絵はカール・デイヴィスの作曲による楽曲と組み合わされ、「純真で牧歌的な時代」のカンポンで過ごした子供時代を見事に捉えていた。 1997年、27年間を過ごしたクアラルンプールを離れ、家族を連れてイポーに戻った。漫画界から少し距離を置くとともに、故郷のカンポンの近くに住み、子供たちに小都市や村の暮らしを味わわせようとしたのだという。ラットは1977年に結婚し、4人の子供(娘2人、息子2人)を授かっていた。ラットによると、子育ては有名人としての重圧を紛らわせてくれただけでなく、漫画の好みが異なる若い世代との間にギャップが生まれる可能性に気づかせてくれたという。ラットの妻は完成原稿をスキャンしてクアラルンプールの新聞社に電子メールで送る役を務めていた。ラットは現在でもペンとインクで漫画を描いており、コンピュータを使うのはメールを読むときだけである。2011年から2012年にかけて、チヴィテッラ・ラニエリ・フェローシップのプログラムによって世界中のアーティストとともにイタリアに招聘された。彼らは創作活動を支援するように用意された環境の中で、一か月の滞在期間にわたって交流した。
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