「善戦ホース」となる
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「ナイスネイチャ」の記事における「「善戦ホース」となる」の解説
11月3日に迎えた菊花賞では前走で破ったイブキマイカグラに次ぐ2番人気に支持されたが、周回2周目の第3コーナーから追走に苦労し始め、直線でも伸びきれずレオダーバンの4着に終わった。夏から使い詰めであったものの競走後に疲労は見られず、12月には鳴尾記念に出走し重賞3勝目を挙げる。年末にはグランプリ競走の有馬記念に臨んだ。当日は2番人気に推され、松永は1番人気のメジロマックイーンに目標を定め、同馬をマークしながらレースを運んだ。しかし最後の直線では突き放されると、後方からメジロマックイーンをも差し切った14番人気の伏兵ダイユウサクの3着に終わった。これが有馬記念で最初の3着となった。 年明けから持病の骨膜炎が悪化し、古馬となった1992年春は全休を余儀なくされる。10月に天皇賞(秋)の前哨戦・毎日王冠から復帰し、3着。本番の天皇賞(秋)ではトウカイテイオーに次ぐ2番人気に推されたが、レッツゴーターキンの4着。以後もマイルチャンピオンシップ3着、有馬記念で2年連続の3着、年明けの日経新春杯2着、阪神大賞典3着、大阪杯2着と勝ちきれない成績が続き、大阪杯の後には骨折のため休養に入った。秋に毎日王冠から復帰したが、前年に引き続き3着。天皇賞(秋)はライスシャワーに次ぐ2番人気に支持されたが、最後の直線で追い出されると急激に失速し、15着とデビュー以来初めての大敗を喫した。続く国際招待競走ジャパンカップも7着と敗れた。 3年連続出走となった有馬記念では当日10番人気の評価であったが、レースでは中団でトウカイテイオーと並んでレースを進めると、最後の直線では激しい競り合いを演じたトウカイテイオーとビワハヤヒデの3馬身半後方で、追い込んできたマチカネタンホイザをアタマ差抑え、3年連続の3着となった。グランプリにおけるこの記録は「怪挙」、「異業」などとも言われ、「有馬記念3年連続3着」はナイスネイチャの代名詞ともなっていった。競馬評論家の井崎脩五郎、血統評論家の吉沢譲治、ライターの阿部珠樹は、この出来事についてそれぞれ次のように述べている。 ナイスネイチャといえば、なんといっても、「有馬記念における3年連続の3着」である。これが2年連続の3着なら、まあ、たまにはそういうこともあるだろうなあという程度で、誰も驚かないと思うのだが、3年連続の3着というのはすごい。ケタの違うインパクトがある。「私は自他ともに認める日本一のジリ脚です」と看板を出してしまったようなものだ。相手が違い、ペースが違い、位置取りだって違ったのに、終わってみたら3年とも3着だったのである。しかも、3年目の3着は、人気と連動していないのだ。10番人気で3着に追い上げてきたのである。ナイスネイチャは2年連続で3着しているが、今年はこの成績では上位入線は無理だろうとみんなが思っているところへ、まさかの渋太さで3着に追い上げてきたから、みんなビックリしてしまったのだ。有馬記念における伝説のひとつとして語られることになってしまったのである。ひと口で言えばジリ脚なのだが、3年連続3着となっているのがグランプリの有馬記念だけに、大舞台でよくこんな記録を作ったものだなあという一種の畏敬の念を含んで、ジリ脚ながらも頑張ったことに対する親愛の情とともに語られることになったのである。 — 井崎脩五郎 生まれた時代が悪かったのか、それとも能力の限界だったのか、GI3着が指定席。有馬記念に至っては3年連続3着。名脇役というより迷脇役だった。やっぱり複勝でドカンと勝負すべきだったと、いまだに悔いている。 — 吉沢譲治 有馬記念に3年つづけて出走するのも容易なことではないのに、3度3着をつづけるというのはそれなりの力量があるという証拠で、評価しなければならない。 — 阿部珠樹 7歳となった1994年初戦のアメリカジョッキークラブカップでは7着と敗れ、続く大阪杯では2着と好走したが、GI競走の天皇賞(春)と宝塚記念ではいずれも4着と、掲示板(5着以内)確保に留まった。 7月10日、GII級競走の高松宮杯に出走。前年の日本ダービー優勝馬ウイニングチケットや宝塚記念2着のアイルトンシンボリらが揃うなか、初めてメンコ(覆面)を外して出走したナイスネイチャは、中団待機から向正面で5番手まで位置を上げると、最後の直線で競り合うスターバレリーナ、マーベラスクラウン、アイルトンシンボリを交わして1着となり、4歳時の鳴尾記念以来、2年7カ月ぶりの勝利を挙げた。当日の中京競馬場には、競馬ブームを起こしたハイセイコーが出走した1974年以来となる6万5159人の観客が集まっており、ナイスネイチャに対してはGI競走に匹敵する声援が送られた。松永昌博は「ネイチャや関係者、そして負けても負けても応援してくださったファンの皆さんのことを思うと、とにかくホッとしました」、松永善晴は「もう勝てないのではと思うこともありました。ここまでチャンスはいくらでもあったのですが、取りこぼしもありましたからね。勝ってホッとしたというのが本音です。ここまで声援を送って下さったファンの皆様に心からお礼を言いたいです」と語った。 休養後の秋は緒戦から掲示板を外す成績が続き、4年連続出走の有馬記念では第3~4コーナーで位置を押し上げたものの直線で伸びきれず、5着に終わった。翌1995年1月に馬主の豊蔦正雄が死去、ナイスネイチャの売却話も持ち上がったが、当年初戦の京都記念で2着と健闘し、豊蔦の息子・泰三に所有が引き継がれることとなった。
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