「パーク」から「リゾート」へ
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「高橋政知」の記事における「「パーク」から「リゾート」へ」の解説
1970年代に立て続けに発生したオイルショックの後の、緩やかな経済成長期に開業したこの「テーマパーク」は、「余暇をいかに楽しむか」を考える余裕が出てきた日本人の心をつかみ、初年度は1036万人もの入園者を数えた。その後、「つくば科学博」の開催による相乗効果で入園者数を伸ばしたほか、バブル景気の影響で全国各地に建設された遊園地の中でも強い独自色を発揮し、着実に入園者数を増やしていくのであった。また、その入園者数に甘んじることなく、「永遠に完成しない場所」というウォルト・ディズニーの考え方をコンセプトとして、様々な分野において改善の手を加え続けていった。 高橋が社長として陣頭指揮をとっていた矢先、1988年4月に妻・弘子が心臓病で倒れた。公私混同を徹底して嫌っていた高橋は、会社には迷惑はかけられないと同年6月25日付で会長職に退き、三井物産及び日本興業銀行出身の森光明に後を譲り、毎晩病室に泊り込んでは、そこから会社に通う日々が始まった。高橋は、これが妻へのせめてもの恩返しだと考えていた。 政治家への政治献金など、会社から出しにくい金は全て高橋の自腹だった。それを可能にしたのは、妻・弘子の実家である高橋家の財力である。書画・骨董が無くなっていくのを黙って見守っていた弘子。おしどり夫婦として知られていたが、さすがに、東京・渋谷にあった邸宅を売却されたときには、そんな弘子でも怒ったという。現在、その邸宅は、ニュージーランド大使館として利用されている。 1986年1月、ディズニー社はオリエンタルランドに対して、舞浜地区全体の開発を目指した「東京ディズニーワールド構想」を提案してきた。オリエンタルランド社内での検討の末、1988年4月15日に開かれた東京ディズニーランド開園5周年の記者会見の席上で、当時、会長に就任したばかりの高橋が「第2パーク構想」について発表、周囲はその向上心に驚いた。 その後、バブル景気の崩壊、ディズニー社との「ディズニー・ハリウッド・スタジオ」をめぐるすれ違いと多額の違約金の支払い、ディズニー社との長期間にわたる議論などを経て、「東京ディズニーランド」に次ぐ第二のディズニーパークである「東京ディズニーシー」を始めとして、「イクスピアリ」、「ボン・ヴォヤージュ」など、現在の「東京ディズニーリゾート」を形作る施設の全体像が見え始めてきた。 1992年1月9日に後任の森光明が心筋梗塞で急死した。亡くなる前夜には、銀行関係の新年会に元気な姿で出席していたため、高橋もショックの色を隠しきれなかった。その後、高橋が社長職を兼務していたが、同年6月23日付で千葉県庁出身の加藤康三が社長に就任し、高橋の側近として「東京ディズニーリゾート」の実現に向けて努力していく事となる。そして同年には高橋の必死の看病もむなしく、愛妻・弘子も死去した。高橋の落胆ぶりは、周囲が直視できないほどであった。 1995年6月、高橋は相談役に退き、加藤康三が会長に、当時副社長を務めていた加賀見俊夫が社長に就任した。 「舞浜地区開発」「東京ディズニーリゾート計画」が着実に進む傍らで、高橋の体は着実に弱っていった。1999年の年末には、工事現場を見回るくらいであったものの、体調は急速に悪化していった。死の3日ほど前に「東京ディズニーシー」の工事状況を説明され、パーク中央にある「プロメテウス火山」の出来具合に満足そうにうなずいていた。 2000年1月31日、高橋は静かに息を引き取った。心不全だった。ディズニーランドとは切っては切り離せない、86年の生涯であった。生前、高橋は親族だけによる静かな見送りを望んでいたが、会社への貢献度の大きさからオリエンタルランドは社として「お別れ会」を企画した。その中で、加賀見は天国の高橋に対して、東京ディズニーリゾートの成功を固く誓った。 2001年9月4日、折りしも高橋の88回目の誕生日となるはずだったこの日、世界初の「海」をテーマにした「ディズニーパーク」である「東京ディズニーシー」、そしてそのパークと一体型となったホテル「東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ」がそろって開業した。高橋をはじめとした、多くのオリエンタルランドの社員たちの努力が、ついに実を結んだのであった。 東京ディズニーランドにあるワールドバザール「タウンセンター・ファッション」2階のショー・ウインドーに、「Office OF LEGENDARY CREATIONS」と記されているところがある。これは1998年に開園15周年と高橋のディズニー・レジェンド受賞を記念して記されたものである。直訳すると「伝説的創造のオフィス」、創立者の名前には「MASATOMO TAKAHASHI」の名前。隣のウインドーには、英語で「夢を追い求め、実現した人」と記され、高橋の後世に残る偉業をたたえている。なお、ディズニーパークで、記念として建物に名前が記された日本人は、高橋が初めてである。
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