荒木村重 荒木村重の概要

荒木村重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/26 13:11 UTC 版)

 
荒木村重
村重.jpg
「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」
歌川国芳嘉永元年-2年(1848-49年)頃
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文4年(1535年
死没 天正14年5月4日1586年6月20日
改名 十二郎、弥介(弥助)、村重、道糞、
道薫(号)
別名 受領名:信濃守
戒名 秋英宗薫居士
心英道薫禅定門
墓所 大阪府堺市堺区南宗寺
兵庫県伊丹市荒村寺
官位 従五位下摂津守
主君 池田勝正池田知正織田信長豊臣秀吉
氏族 荒木氏
父母 父:荒木義村(または荒木高村とも)[1]
兄弟 村重、女子(野村丹後室)[2]、吹田村氏[3]
池田長正の女、北河原三河守の女[4]だし(正室?)
村次、村基、岩佐又兵衛ほか

生涯

池田・織田家臣時代

天文4年(1535年)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)[1]嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。

最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。

その後、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。天正2年(1574年)11月5日に摂津国国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。以後も信長に従い、石山合戦高屋城の戦い天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。

謀反

有岡城跡

天正6年(1578年)10月、三木合戦羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由は後述)。一度は糾問の使者(明智光秀松井友閑万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。羽柴秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。

以後村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移ってしまった[6]

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この事は

百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。

信長公記

と記されている。12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を、

かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。

立入左京亮宗継入道隆佐記

と記している。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。

しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされる[7][8]

茶人として復活

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変横死するとに戻りそこに居住する。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し[9]荒木道薫(どうくん)となった(はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている)。

銘器「荒木高麗」を所有していた(現在は徳川美術館所蔵、公式サイトの解説)。

天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年52。

子孫

  • 江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫のひとりとされている[10]
  • 荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた[11]
  • 大阪府岸和田市荒木町は、伊丹城陥落時に村重の子供が乳母と共に逃れ、後に開発した場所だと伝えられている[12]
  • 熊本藩に息子・荒木村勝の子・荒木克之の系統が仕官している。
  • 荒木流拳法は創始者を村重の孫・荒木夢仁斎源秀縄としている[13]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 異説として荒木高村(たかむら)を父とするものもある。『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』では高村は義村の父、すなわち村重の祖父としている。
  2. ^ a b c 系図纂要』より。
  3. ^ a b 寛政重修諸家譜』より。
  4. ^ 寛政重修諸家譜』では嫡男・村次の母とされる。だしがこの北河原三河守の女ではないかとする説もあるが、今のところだしと村次が年齢が近いということになっているため有力とは言えない。
  5. ^ 『荒木略記』『寛永諸家系図伝
  6. ^ ただし、これは闇雲に逃走したわけではなく、毛利軍の将・桂元将の詰めていた尼崎へ援軍要請に向かった為である。現にその後も西へ逃亡することなく半年以上も尼崎に留まり抗戦している。
  7. ^ 「軍師官兵衛」にも登場、荒木村重しのび茶会 : ニュース : 新おとな総研- 読売新聞[リンク切れ]
  8. ^ 中国新聞 2014年2月28日12面
  9. ^ 完訳フロイス日本史
  10. ^ 『岩佐家譜』など。近年『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図を根拠に、又兵衛は村重の末子ではなく、村次の長男で村重の孫とする説もある(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。
  11. ^ 熊本藩細川家の家譜『綿考輯録』(『細川家記』)巻五(『出水叢書一 綿考輯録 藤孝公』所収、出水神社 ISBN 978-4-7629-9323-7
  12. ^ 岸和田市:市史史料目録「荒木家文書」
  13. ^ 荒木流拳法”. 日本古武道協会. 2010年1月19日閲覧。


「荒木村重」の続きの解説一覧





荒木村重と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

荒木村重に関係した商品

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「荒木村重」の関連用語

荒木村重のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

修善寺寒桜

スペースシャトルのペイロード・ベイ

Uターンアプローチ

月心寺庭園

愛宕山丸

地方自治法施行60周年記念 高知県分 1,000円銀貨幣

あさなぎ丸

ドーリス科の1種2





荒木村重のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの荒木村重 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2015 Weblio RSS