項羽 関連研究

項羽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 09:51 UTC 版)

関連研究

  • 永田英正、『項羽』、人物往来社、1966
  • 永田英正、『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』、PHP文庫、2003.6(上記の文庫版)
  • 歴史群像シリーズ32、『【項羽と劉邦 上巻】 龍虎、泰滅尽への鋭鋒』、学研、1993
  • 歴史群像シリーズ33、『項羽と劉邦 下巻 楚漢激突と“国士”韓信』、学研、1993
  • 藤田勝久、『項羽と劉邦の時代』、講談社選書メチエ、2006.9
  • 佐竹靖彦、『項羽』、中央公論新社、2010.7
  • 柴田昇、『漢帝国成立前史』、白帝社、2018.3
  • 松島隆真、『漢帝国の成立』、京都大学学術出版会、2018.3

関連項目

  • 火尖槍 - 『西漢演義(西漢通俗演義とも)』では、項羽は火尖槍を得物としている。
  • 烏騅 - 項羽が最後の最後まで一緒にいたのが愛馬・騅。
  • 阿房宮 - 秦の始皇帝が建てた宮殿である。阿房宮は項羽に焼かれた。
  • 杜牧 - 詩「題烏江亭」に「項羽が楚に落ち延びていたら捲土重来できたろうに」と。捲土重来の語を作った。

項羽が登場する作品

小説
  • 『西漢通俗演義』 作:甄偉 中国明代演義小説
  • 『通俗漢楚軍談』 訳:夢梅軒章峯・称好軒徽庵 元禄8年(1695年)に刊行された『西漢通俗演義』の漢文による翻訳。Amazon Kindleによる電子書籍も存在。
  • 『項羽と劉邦』 作:長與善郎(1917年)
  • 項羽と劉邦』 作:司馬遼太郎 連載時の題名は「漢の風、楚の雨」(1977年~1979年)
  • 『小説 項羽と劉邦』 作:童門冬二
  • 『四面楚歌―漢楚戦記』 作:小島真爾 『通俗漢楚軍談』の現代語翻訳
舞台
映画
テレビドラマ
漫画
ゲーム

脚注


  1. ^ 『史記』項羽本紀などによる。『史記索隠』では「字は子羽」とする。
  2. ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』項羽本紀による。
  3. ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。また、秦代では正月を端月とする。
  4. ^ 佐竹靖彦は著書『項羽』でこの称号を疑問視する。本来は「楚王」あるいは「大楚王」と名乗ったところを、劉邦陣営が楚を「西楚」と領土を狭め、王を「覇王」と暴力的な意味をわざと付けて呼んだのが記録に残ったとする。
  5. ^ 『史記』項羽本紀、「学書不成」異説として、雨森芳洲は「ここでいう書とは歴史書のことで、項羽は『歴史書なんか歴史上の人名がわかればよいのだ』と開き直ったのだ」という。通説では本文の通りで、滝川亀太郎も雨森の説を退けている。(『史記会注考証』)
  6. ^ 項羽の兵法は『漢書』藝文志に「項王一巻」とあり、後世に伝わったが、現存はしていない。(『史記会注考証』)
  7. ^ 何焯は「(『史記』黥布列伝によると)黥布の陣立てが、項羽の兵法に依っていることを見た劉邦はそのことを憎んだ」という文章を注釈として引用している。(『史記会注考証』)
  8. ^ 史記会注考証』の著者である滝川亀太郎は、「(私が)思うに、(項羽は)兵を統率し、陣を形勢するのを得意としていたがために、力戦することができ、敵を撃ち砕けた。しかし、権謀の策が足りず、後に(相手に)奔走させられて、疲れ果てたところを敵に乗じられて倒されてしまった。これが、ここでいう(項羽が)『兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった』という文の意味である」と論じている。(『史記会注考証』)
  9. ^ 司馬遷はも瞳が二つあったと伝えられることから、項羽は舜の子孫ではなかったかと疑っている。
  10. ^ この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。以下、同じ。
  11. ^ 後9月は、顓頊暦における閏月
  12. ^ 佐竹靖彦は、「懐王の身辺に、どのような老将がいたのであろうか」と疑問を投げている。佐竹靖彦『項羽』146頁
  13. ^ a b c d e f g h 『史記』高祖本紀
  14. ^ 中国国際放送局の『『史記・項羽本紀』②~頭角を現す項羽~』によれば、この時の楚の兵力を10万、秦の兵力を30万だったとする。
  15. ^ 『史記』「黥布列伝」によれば、「項氏に生き埋めにされて殺された人は、数千数万人にのぼる」とされる。
  16. ^ 佐竹靖彦は項羽が怒った理由を、「劉邦が関中に王権を持つ王として、項羽を対等の諸侯と見なして、軍隊の侵入を阻んだ」ためとする。佐竹靖彦『項羽』192頁
  17. ^ 史記によれば、この時の項羽の兵力は40万、劉邦の兵力を10万だったとする。
  18. ^ 『史記』始皇本紀
  19. ^ この論客の名は『漢書』陳勝項羽伝と『資治通鑑』では「韓生」(『漢書』では、韓生は釜茹でではなく、項羽の命で斬られたと記されている)、『史記集解』では「蔡生」と記されている
  20. ^ 永田英正は、『(前略)(彭城は、)いくら要害といったところで、これを「金城千里」といわれた関中の地と比較すれば、まったく問題にならず、一望千里の平野のどまんなかに位置するこの城は、東西南北、四面から敵の侵入にさらされていた。まして天下に号令せんとするには、彭城の地はあまりにも東方に偏りすぎていた。項羽が関中を引き上げて彭城に都したことは、明らかに戦略上の失敗であった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』146頁
  21. ^ 永田英正は、『義帝(懐王)との約束に違反して劉邦を関中王にしなかったことも含め、論功行賞が不公平だった(中略)。項羽がこの論功行賞でとった一つの原則は、文字どおり軍功の有無ということ(中略)。項羽のこの原則は、いちおう筋道は立っていた。しかし問題はその判定の基準と恩賞の較差である。(中略)それは、あまりにも主観的であり、あまりにも利己的な立場から行われたために、全体として不公平の譏を免れることはできなかった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』144頁
  22. ^ 永田英正は、『すでに秦も滅び、自分(項羽)が天下の第一人者となったいまでは、かれの存在がしだいに目の上のこぶとなっていた。そこで封地を与えるという名目で、かれを遠い僻地へ隔離しようとしたのである。』、『秦を滅ぼしていらい、項羽にとって、義帝は煙たい存在であった。その義帝に反抗のそぶりがみえたと聞いて、かれ(項羽)は殺す決心をしたのだ』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』142・145頁
  23. ^ a b 『史記』黥布列伝
  24. ^ 永田英正は、『理由は何であれ、秦政権打倒、楚国再興という大義名分のためにおしいただいた盟主義帝である。その義帝を暗殺したことは、まったく弁解の余地のない不義な行為であった。項羽は道義上の責任を問われ、かれを攻撃する絶好の口実をみずからつくってしまったのである。道義心の強い項羽としては、これはとりかえしのつかぬ大きな失敗であった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』145頁
  25. ^ 佐竹靖彦は、彭城の戦い後の形勢において、劉邦は関中と河内郡河南郡に郡県制を行い、大きな国力を手にいれているのに対し、「項羽の側は、劉邦軍の彭城占領によって天下の主催者としての威望は傷つけられた」としている。佐竹靖彦『項羽』245頁
  26. ^ 『史記』陳丞相世家
  27. ^ このような事態が生じた原因として、佐竹靖彦は「項羽集団においては、目的合理性な官僚体制がまったく育っていなかった」ことを挙げている。佐竹靖彦『項羽』276頁
  28. ^ 佐竹靖彦は、「(楚は)国力としては(劉邦の漢に比べ)劣勢に立ちながらも、名将項羽に率いられ、高い戦意に支えられた楚軍は最初圧倒的に優勢であった」としている。佐竹靖彦『項羽』267頁
  29. ^ 佐竹靖彦は、「項羽楚軍の幕僚部と武将のあいだの関係も、うまくいっていなかった可能性がある。何よりも、項羽の懇切な命令が守られていないことに、楚軍の規律の崩壊が感じられる」としている。佐竹靖彦『項羽』302頁
  30. ^ 佐竹靖彦は、「この時期になると、楚国の軍事体制は、もっぱら項羽に率いられた中央軍の滎陽・成皋包囲を焦点として組み立てられており、予想外の事態にはきわめて脆弱な反応しか示しえない状態に落ち込んでいたのである」としている。佐竹靖彦『項羽』298頁
  31. ^ 楚漢戦争の後半は、『項羽本紀』と『高祖本紀』とにおいて、時系列が異なる。ここでは、項羽本紀に従う。藤田勝久は、「このあたりの経過は、『史記』の項羽本紀と高祖本紀に混乱があり、正確にたどるのは難しい」としている。藤田勝久『項羽と劉邦の時代』
  32. ^ a b 『史記』樊酈滕灌列伝
  33. ^ ただし、辛徳勇や佐竹靖彦らは垓下の戦いはなく、佐竹靖彦は『項羽』にて陳下における戦いで項羽は戦死したと主張している。佐竹靖彦『劉邦』487~492頁
  34. ^ 中国紙・北京新浪網の記事によれば、漢書項羽伝や項氏宗譜では夫人(妻)とするが、中国の学者・王立群は結婚していなかった、愛人に過ぎなかったとし、逆に寧業高は「正式に結婚していた」としているという。『專家駁於正:虞姬確有其人但不是正妻』(中国紙『北京新浪網』の記事)
  35. ^ 『史記』高祖本紀では、項羽が敗北して逃走したため、楚軍は大敗したものとする。
  36. ^ 佐竹靖彦は、「実際の戦闘は、大規模な正規軍を率いた灌嬰が東城を含む九江郡を掃討したときに、左右司馬各一人、卒万二千人(兵卒、12,000人)が降伏した。彼はさらに長江を渡って鄣郡、豫章郡、会稽郡を平定して、合計五十二県を得たということであろう。これらの戦役全体の斬首が八万であったということになる」としている。佐竹靖彦『項羽』311頁
  37. ^ 『史記』絳侯周勃世家
  38. ^ 『史記』高祖功臣侯者年表第六
  39. ^ 中国国際放送局の「『史記』「項羽本紀」⑤~英雄の末路~」に記述あり。「天が私を滅ぼすのだ」という項羽の負け惜しみについては歴代の学者がこぞって批判しており、漢の揚雄は「天ではなく(劉邦が組織した)集団の力に負けたのだ。項羽は最後までそれがわからなかったのだ」と批判している(『揚子法言』)。
  40. ^ 『史記』「淮陰侯列伝」
  41. ^ 『史記』「陳丞相世家」
  42. ^ 『史記』「黥布列伝」
  43. ^ 『史記』「高祖本紀」
  44. ^ 王鳴盛十七史商榷』劉項俱觀始皇
  45. ^ 新釈漢文大系』「史記二(本紀)」503頁
  46. ^ a b 『新釈漢文大系』「史記二(本紀)」503頁
  47. ^ 佐竹靖彦は『項羽』で項羽が天下を制したとするが、班固の『漢書』や渡邉義浩の『ビジュアル三国志3000人』(頁79)はこれを否定している。
  48. ^ 永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』240~241頁
  49. ^ 佐竹靖彦、『項羽』9頁
  50. ^ 佐竹靖彦、『項羽』348頁
  51. ^ 佐竹靖彦、『項羽』42~43頁
  52. ^ 佐竹靖彦、『項羽』330~331頁
  53. ^ 『作品について|項羽と劉邦』 このサイトの中で、項羽は呂布と同じく最強を誇るとされる。


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