生麦事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/27 14:09 UTC 版)
生麦事件(なまむぎじけん)は、文久2年8月21日(1862年[1]9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件[2]。
注釈
- ^ 同所にて平成22年12月より首都高速神奈川7号横浜北線建設のため、一時東側近隣の旧東海道脇に仮移転した。
- ^ ちょうど事件が自宅前で起こったため一部始終を間近に見た勘左衛門が、事件当日に神奈川奉行所に出した報告書である。
- ^ 当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の実兄宛書簡は、喜左衛門の弟の奈良原喜八郎としている。ただし、行列の先を行っていた宮里孫八郎が事件の十数日後に鹿児島の家族に宛てた書簡は、当番供目付だった兄・喜左衛門の名を挙げており、久光の駕籠側にいた松方正義も証言を残しており、リチャードソンへの一太刀目は兄の喜左衛門であったことが今日において定説である。
- ^ 「大警視・川路利良: 日本の警察を創った男」(著: 神川武利)より。主に海江田信義の著作と直話に基づく話のようである。
- ^ 事件当時、戸塚の宿役人だった川島弁之助の後年の談話である。
- ^ 生麦事件のわずか9日前、ジャーディン・マセソン商会横浜支店のS.J.ガウアーは、ヴァイス領事に出していた報告書に「独立心に富んだ大名は、心底から攘夷を望んでいるのではなく、外国との交易をこそ望んでいる」と記している。
- ^ 5月4日及び9日の江戸城中における評議には、異例にも水戸藩家老の武田耕雲斎と大場一真斎が参加していた[12]。
- ^ 早朝から各二千ドル入りの箱を積んだ荷馬車がイギリス公使館に到着し、公使館が集めた中国人の貨幣鑑定人が貨幣の検査や勘定を行った上、艦隊の甲板に運ばれた。この作業には3日がかかったという[13]。
出典
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ "生麦事件". 百科事典マイペディア. コトバンクより2022年3月27日閲覧。
- ^ 「国・神奈川県および横浜市指定・登録文化財目録」横浜市教育委員会 pp.20
- ^ a b c d 『薩藩海軍史』
- ^ 『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より[注釈 2]。
- ^ 神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書(嘉永文久年間見聞雑記)『薩藩海軍史』に収録
- ^ a b c d 『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』より
- ^ a b 『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』より
- ^ 『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』引用の「幕府側の所記」
- ^ 『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』が引用する越前藩中根雪江の記録『再夢記事』
- ^ 『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より[注釈 5]。
- ^ 『明治維新と世界認識体系』p.194
- ^ 『一外交官の見た明治維新(上)』
- ^ 坂野正高「駐清英国公使ブルースの見た生麦事件のリチャードソン」(学士会報1974年、第723号)『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』より孫引き
- ^ "The Anglo-Japanese War." November 15, 1863, New York Times.
- ^ 山田勝「イギリス紳士の幕末」(日本放送出版協会、2004年)『ポンぺ日本滞在見聞記』より孫引き
- ^ 林董 1970, pp. 112–113.
- ^ 『古き日本の暼見』より
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