ほんのうじ‐の‐へん【本能寺の変】
本能寺の変
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本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件である[12]。
注釈
- ^ 『明智軍記』によれば、明智勢は三陣あり、第一陣の大将は明智秀満で、四王天政孝、妻木広忠、柴田勝定を従え、兵四千。第二陣の大将は明智光忠で、藤田行政、溝尾茂朝、伊勢貞興、並河易家を従え、同じく兵四千。第三陣の大将が総大将の明智光秀で、斎藤利三、御牧兼顕(景重)、荒木氏綱を従え、兵五千だったとする[1]。その内容は史料で確認できないが、講談話の元となっている。
- ^ 『惟任退治記』によると、信忠の手勢が500名で、京都に滞在していた馬廻りで、馳せ参じた者が1,000騎余とする。
- ^ 『信長公記』に登場する死者の合計。
- ^ 武田氏の惣領信勝の死後、穴山信君の嫡男勝千代が家督を継ぎ、穴山氏は信長によって本領安堵された。さらに勝千代の早世後も、徳川家康の5男信吉が養子に入って継いだので、名目上は武田氏は滅亡しておらず続いている。
- ^ 原文は「天下の儀も御与奪なさるべき旨、仰せらる」(信長公記)
- ^ 織田家の家督は、『信長公記』によりば、これより6年も前の天正3年11月28日に信忠に譲っていた[17]。
- ^ 天正3年に信長に名馬・鷹を献上して以来[18]、伊達輝宗は一貫して信長への従属を表明していた。本能寺直前の5月22日にも馬を贈っている[19]。
- ^ 天正8年3月10日に使者笠原康勝が口上を述べて、織田・後北条は盟約を結んだ[22]。天正10年になると氏政の従属的な立場がより強まり、上記の様に頻繁に献上品が見られ、3月26日には氏政が伊豆三社神社で信長との誼が厚くなるようにという祈願をしたという記録までもある[23]。
- ^ 反足利義昭の元関白左大臣。島津氏との外交のために2度も薩摩に赴いている。天正10年2月に太政大臣となった。
- ^ 龍造寺氏との信長の外交状態についてはよくわかっていない。ただしこのころ、龍造寺氏と毛利氏は同盟関係にあった。
- ^ 信長包囲網は、京を追われた将軍足利義昭の主導するものであり、三職推任問題などでも将軍が依然として存在する事実は障害となっており、義昭を匿う毛利氏を打倒することは信長が名実共に天下平定を宣言するために必要不可欠となっていた。
- ^ 『長元物語』によると、堺商人宍喰屋一廉の仲介によると云う。
- ^ 『石谷家文書』による[38]。 これ以外にも、元親の正室を光秀の妹の子とする[39]など異説も幾つかある。斎藤利三と光秀の関係も諸説あり、利三の妻が道三の娘で道三の妻(小見の方)が光秀の叔母にあたるというものや、利三が光秀の妹あるいは叔母の子とするものなどがある。しかしいずれにしても、両者は親類にあたるとされている。
- ^ 秀吉は中国攻めの総大将であるだけでなく、北面する備前国の宇喜多氏とも近しい関係にあり、讃岐・阿波での情勢に強い影響力と関心を持っていた。
- ^ 歴史評論家・音楽評論家の香原斗志は、「晴豊公記」「言経卿記」などの史料から、この四国政策の失敗が本能寺の変の原因だと見ており、実は本能寺の変が発生した直後から主な公家や織田家の家臣たちが、原因は信長の四国政策の変更だと見ていたと言う[43]。
- ^ 「古郷に残す妻や子に名残り惜しまれ、恩愛涙尽きぬは帰らぬ旅の首途と、後にや思ひ合わすらん、また夜をこめて進発すとある」[99]。
- ^ 『信長公記』には中国出陣を命じられた将に筒井順慶の名はないが、『細川忠興軍功記』では明智・細川忠興・筒井順慶の3名に出陣が命じられたとある[101]。
- ^ 天正8年の丹後入国以後、藤孝は、出陣等には忠興や家臣松井康之らに名代を任せて、国を出なかった。
- ^ 池田4,000、高山2,000、中川2,500[103]。長岡・塩川らは不明。
- ^ 秀吉15,000、羽柴秀勝5,000、宇喜多秀家(忠家)10,000[105]
- ^ 清水・末近の城兵5,000(農民500含む)、小早川隆景・吉川元春の援軍30,000。毛利輝元も後詰に出陣したが兵数の記載なく内訳は不明[105]。
- ^ a b 一般に、丹羽長秀は四国遠征の指揮官の一人と見なされているが、『信長公記』によれば長秀に出陣の命令は与えられておらず、家康の饗応役も解かれていなかった。本能寺の変が起きなかった場合に実際に参加することになったのかどうかは不明。蜂屋頼隆は長秀の女婿であるだけでなく、馬揃えでも二番隊を指揮するなど大将格であったという説もある。
- ^ 丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼の4名[110]。
- ^ 松倉城主。諱は複数伝わる。
- ^ 小幡は3月25日、真田は3月22日に投降し安堵されている[118]。
- ^ 『信長公記』原文より信長公此等趣被及聞食今度間近く寄合候事興天所候被成御動座中国之歴々討果九州まで一篇に可被仰付之旨 — 史籍集覧[123]
- ^ 備中に向かった時期は不明。
- ^ 『家忠日記』によると、(6月)3日に松平家忠へ家康と同行していた酒井忠次から京都より手紙が届き、家康帰国後に西国へ出陣するとの報と、その際に諸国では指物に大旗の使用を止め、撓を用いていることを伝えられている[125]。駒澤大学の「『家忠日記』の記事紹介と解説 ②本能寺の変」によると、これは「毛利攻めを行っていた秀吉の援軍のための出陣と思われます」と説明されているが[126]、谷口克広は、京都と書かれているが、酒井は家康一行の一員として伊賀越えの途中にあり、河内で変をしるやいなや三河に飛脚を飛ばしたのだろうが、この飛脚は西国出陣準備の命令ばかりで、変については秘密をまもらせたようで、まもなく三河にも変報はつたわるが、家忠が後半に書いたのは別ルートからの情報で、3日中に第一報と第二報を得ていたとしている[127]。
- ^ 京都の愛宕山に祀られる天狗のこと。愛宕太郎坊天狗。
- ^ 信長はかつては妙覚寺を寄宿先としていたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し[128]、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用するようになった[131]。
- ^ 改暦#天正10年の例を参照。
- ^ 現在の亀岡市篠町野条[138]。
- ^ 『信長公記』のほんどの版では溝尾勝兵衛の名前がここでは出てこない。4名となっている。
- ^ 現西京区大枝沓掛町。
- ^ これは通説では「家康を討つため」と本城が思っていたと解釈されていたが、白峰旬は家康の援軍となるためという解釈であるとしている[145]。
- ^ 『当代記』によれば奥州出身の馬術家と云う[3]。
- ^ 『信長公記』を書いた太田牛一は信長に近侍した御弓衆であった。諸版本の『池田家本「信長記」』には、「信長の最後の直前まで傍らにいた本能寺から避難した女衆に取材した」と、他版とは異なる記述ある。
- ^ 信長の最後は、『信長公記』では「御腹めされ」[152]と切腹したとし、『惟任退治記』など他の多くこれに従って切腹を意味する表現が使われている。他方『当代記』では「焼死玉ふか」[157]と焼死かもしれないと言葉を濁している。
- ^ 金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本。
- ^ 東京大史料編纂所教授(日本中世史)。
- ^ 『惟任謀反記』には十文字鎌鑓を用いたという記述があり、あるいはそれを描写したものか。
- ^ 現代語訳にすると、「上様(つまり信長)と殿様(つまり信忠)は無事に(変を)切り抜けて助かり、膳所ヶ崎(大津市)に退いた」という内容。
- ^ 宗安は西山本門寺の18世日順上人の父親。宗安の父胤重と兄孫八郎清安は、本能寺で亡くなり、その父兄の首と共に信長の首を運び出して、寺で供養したという内容。
- ^ この日まさに明智光秀は安土城におり、朝廷の使者として来訪した吉田兼見と会見していた。
- ^ 信忠の死去の地について「二条城」と称されることが多いが、今日では足利義昭の居城として築かれた二条御所ではなく、義昭が追放された後に二条晴良から信長に提供された旧押小路烏丸殿のことだと考えられている。
- ^ 時間については『イエズス会日本年報』
- ^ 『明智軍記』では、鎌田は井戸にしばらく身を隠して脱出したと云う。
- ^ 二条御新造で戦死とする史料もある。
- ^ 『三河物語』では籠城に加われずに追腹をしたとある[154]。
- ^ 安土城などの大工棟梁。
- ^ 原典はフロイスが送った書簡『1582年のイエズス会日本年報追加』[197]による[198]。
- ^ 本能寺の変に触れるドラマの中では、弥助が信長に殉じて討ち死にするという描かれ方をされることもある。
- ^ 「国替え説」は、唯一史料として変19日前の5月14日付けの丹波国人、土豪への軍役を課した神戸信孝の軍令書が存在し、この人見家文書の花押の真偽を巡る学問的な論議となっている。しかし、簗田広正や滝川一益が同様の敵地への領地替えが行われた際は、彼らの旧領はしばらく安堵されていたので、これは新領獲得まで旧領安堵するという当時の作法ではという説がある[210]。
- ^ a b 京都大学付属図書館所蔵の愛宕百韻写本では「下なる」とされている。
- ^ 「まつ山」は「夏山」ともされる。
- ^ 「池の流を」は「池のなかれ」ともされる。
- ^ 義残後覚の成立年代は実際にはやや下るものと見られている[222]。
- ^ 小和田哲男は有力視されている説として、下記の1.野望説、2.突発説、3.怨恨説、32.朝廷黒幕説を上げている[242]。
- ^ 両者とも何らかの陰謀・謀略を示唆するという共通点がある。
- ^ a b 明智憲三郎は、同書を改訂したものを、2013年に『本能寺の変 431年目の真実』(文庫版)として、また2015年には『織田信長四三三年目の真実 : 信長脳を歴史捜査せよ!』(幻冬舎)を出版している。
- ^ a b c d e 各項目・順番や構成は、後藤敦による「本能寺の変学説&推理提唱検索」(別冊歴史読本54完全検証信長襲殺)による[252][253]。
- ^ 司馬遼太郎は「『国盗り物語』では野心があったように書きましたが、光秀はノイローゼだったのではないかと思っているのです。ですがノイローゼでは小説になりませんので」と発言をしている。
- ^ ただし、三好康長と信吉の養子縁組の時期については谷口克広から本能寺の変当時にはまだ縁組は成立していなかったとする反論が出されている[284]
- ^ 暦の問題については、天正11年の1月の京暦の中に雨水が含まれずに本来中気が入ってはならない閏1月にずれてしまうという太陽太陰暦の原則に反した錯誤が生じていたが、武家伝奏であった公家の勧修寺晴豊の「日々記」の天正十年夏記六月一日によると、信長はこれを死の前日まで公に指摘していた。これも朝廷に対する己の優位を示すためのキャンペーンのひとつであったと捉えるか、信長式の尊王的態度の表れだと捉えるかでも、争いがある。
- ^ 光秀が義昭の旧家臣であることを裏付ける史料としては「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(第13代将軍義輝と第15代将軍義昭に仕えた幕府役人リスト)がある。その後半部分に「足軽」として「明智」が出てくる。また近年発見された『米田家文書』により永禄9年10月以前の段階で近江高島城(城主の田中氏は幕府奉公衆に属する)に籠城していたことも裏付けられている[306]。さらに『細川家記』の義昭側近だった細川藤孝の記録部分や、1570年に義昭からの山城国下久世の所領付与『東寺百合文書』、信長との対立後に義昭の側近曽我助乗に暇を求めた光秀書状が現存する[307]。
- ^ ただし藤田は2019年刊行の『明智光秀伝』のあとがきで「ところが、義昭の亡命政権「鞆幕府」の重要性に着目したのが災いしたのか、筆者の意に反して「義昭黒幕説」さらには「陰謀論」とまでミスリードする研究者がいる。いったい、拙著・拙稿のどこをどう読んだら、その様な評価になるのだろうか」[308]と、自らの説が陰謀論まがいの粉飾を施された「義昭黒幕説」として取り沙汰されていることに強い不満を表明している。
- ^ こうした意見に対し藤田は2019年刊行の『明智光秀伝』で「光秀自らそれを語っている書状があることから成立しない」と義昭と見られる人物の「御入洛」に言及した土橋重治宛て書状の存在を根拠に反論している。光秀と細川父子との書状のやりとりは2往復行われたと考えられており、藤田は「もし書かれていたとすれば、光秀が与同を求めた前報ではなかろうか」としている[310]。
- ^ 『荻藩閥閲録』によれば、毛利は変から4日たってもまだ変の実態がつかめなかった。
- ^ 南光坊天海=光秀説については、光秀の首とされたものはすでにかなりの腐敗の進んだ状態で実検されたことや、比叡山に慶長20年2月に「願主光秀」が寄進したと刻まれた石灯籠が存在すること、光秀の位牌を祀る大阪の本徳寺に残存する光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」という裏書があり、そのまま読めば光秀は仏門で余生を送ったという意味であること、東照宮陽明門の武士木像、鐘楼の紋は明智の家紋である「桔梗」であること、家康は、光秀が所有していた熊毛の鑓(やり)を何故か所有しており「これは名将 日向守殿の鑓である、日向守の武功に肖れ。」と付言して従兄弟 水野勝成に与えたことなどが上げられる。「明智光秀#南光坊天海説」も参照
- ^ 戦国時代の堺商人は、戦支度やその他利権等を獲得のため、権力者へ擦り寄り、鉄砲で敵対する天下人候補を狙撃、偽書状等を出す、暗殺等、色々行ってきた。史実としても、堺商人と信長、本能寺との間で鉄砲などの既得権を巡る争いや対立があった際には、信長と堺商人が既得権を巡り対立し、今井宗久や津田宗及が堺側を説得して、武力衝突を回避してきたという経緯がある。
- ^ 柴田勝家は近江長光寺二郡から越前八郡に、滝川一益は伊勢長島から上野一国・信濃二郡に加増ながらも近畿から遠い地に転封されている。秀吉も近江長浜から播磨一国に転封しており、長浜は収公、新城主に堀秀政が内定していた。
- ^ 江戸期には柏原藩の大名であった高長流の17世当主・織田信和とは別人。高長流織田家18代当主の織田孝一は、信忠の系統が断絶して以降宗家を名乗るものはなく、「織田廟宗家を名乗る人物」は、大名家の子孫である各織田家と関係のない人物であるとしている[337]。
- ^ フロイスの『日本史』第55章に「信長は、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」という記述がある。
- ^ 目的が他にあるように見せかけて、途中、急きょ、本来の目的に向かうこと。「敵本」は「敵は本能寺にあり」の意味で、本能寺の変に由来する成句[349]。
出典
- ^ a b 北陸の平定と対上杉氏
天正3年9月に北ノ庄を拝領して以来、北陸は柴田勝家が管轄していた。謙信亡き後に御館の乱が起きた時、信長はその間隙を突いて越中に狙いを定める。天正6年4月7日、追放されていた(信長の義兄にあたる)神保氏張に黄金百枚を与えて帰還させると、飛騨の姉小路頼綱にこれを支援させた[54]。飛騨路より神保長住を先鋒とする織田勢が攻め寄せると、上杉家重臣河田長親と椎名道之は津毛城に拠って防戦したが、9月24日にさらに援軍として斎藤利治が出陣したと聞き、退却。放棄された津毛城に長住が入った[55]。10月4日、利治は月岡野の戦いで上杉勢に大勝[56]し、織田勢は翌年までに富山城を陥れて、越中の西半分を平定した。一方、越後では天正7年(1579年)3月24日に景虎が自害して乱は終息するものの、上杉景勝は残党狩りと越後平定に忙しくて反撃する余力がなかった。加賀国は孤立状態になり、天正8年閏3月9日、越前より再び侵攻した勝家は一向一揆の徹底した鎮圧に着手した[57]。同時に越中森山(守山)より長連龍が能登に侵攻し、閏3月30日、温井景隆・三宅長盛兄弟を飯山で撃破した[58]。末森城・土肥親真は降伏し、温井・三宅兄弟は信長に陳謝して能登半国を差し出すことで許された[59]。5月ごろまでに能登・加賀の大半は平定され、佐久間盛政が調略にて加賀尾上城を落して[60]、11月17日には一向一揆の首謀者が梟首[61]に処された。信長は能登の国政を前田利家に委ねると決めて取りあえず飯山城に入れ、富木城に福富秀勝が、七尾城に菅屋長頼が城代として派遣された[62]。
ところが北陸三国が平定されたのも束の間、天正9年2月から3月にかけて、馬揃えのために、勝家・勝豊・不破光治・金森長近・原政茂・利家などの越前衆、佐々成政・長住などの越中衆の諸将が上洛して手薄になると、その隙に上杉景勝の増援を得た河田長親が越中で反撃に出た。上杉勢は松倉城より出撃して、3月9日に小出城を包囲し、扇動された一向一揆の残党が白山麓から加賀に攻め込み、別宮城・府峠城を攻め落としたのである。しかし尾上城主として留め置かれていた盛政が即座に反撃して府峠城を奪還し、安土に急報する。この間、越前衆は2月27日に馬揃えに参加し、越中衆は3月6日に遅れて上洛した。15日に安土で信長に拝謁した北陸衆一同は帰国反撃を命じられて昼夜を徹して移動。24日、成政・長住が小出城の救援に来ると聞いて長親は包囲を解いて撤退し、成政は守山城に入った。信長はその迅速な成功を喜び、成政を越中の守護に任じると言った[63]。5月、織田勢に包囲されていた松倉城で長親が死去した[64]。6月27日、七尾城で遊佐続光ら3名がかつて叛逆したかどで切腹を命じられ、これを聞いた温井・三宅兄弟は次は我が身と恐れて出奔した。7月6日、越中木舟城主石黒成綱主従が上杉への裏切りを疑われて近江に誘い出され、丹羽長秀が誅殺した[65]。能登では主城以外の城砦が破却され、利家は七尾城に移った。
天正10年3月、武田勝利の誤報を信じた一揆が越中に起こり、小島職鎮と一揆勢が富山城を落として長住を監禁した[66]事件を機に、勝家ら北国諸将に出陣の号令が出された。成政と盛政は先陣争いをして不仲であったが、勝家は両名を先陣に指名した。魚津城の戦いの包囲中、5月16日、景勝は天神山城に後詰で入リ[67]、下知を受けた長景連が海路から能登に侵入して棚木城を奪った。5月21日、利家は長連龍と共にこれを攻略し、景連の首を勝家の陣中に届けた[68]。信長も利家の勝利を喜び、海津城の森長可が信州より春日山城を襲い、上野厩橋城の滝川一益も、三国峠を越えて越後に乱入するので、天神山城から撤退するであろう景勝を追撃するように勝家に準備を指示していた[69]が、変があって実現しなかった。 - ^ a b c 中国経略と対毛利氏
天正5年10月23日、播磨に出陣して以来[70]、中国は概ね羽柴秀吉が管轄した。中国役当初の毛利氏は12ヶ国にまたがる大勢力で、流浪の将軍足利義昭を擁し、石山本願寺三度目の挙兵とも組んで信長包囲網を形成していたので、中国経略は信長の前に立ち塞がる最大の未完事業となっていたが、この時点では謙信が存命で勝頼とも事を構えていたために自ら出向くことはなかなか難しく[71]、「手の者」[72]として最も信頼できる秀吉が起用された。秀吉自身にとっても、少し前に勝家と仲違いをして北陸から無許可で引き揚げたことで信長の勘気を蒙ったので[73]、この機会に忠勤に励んで信長の知遇に報いて見せる必要があった。
播磨で前年に御着城主小寺政職が黒田孝高(小寺孝隆)の策に従って信長に帰順したことが、織田勢力を引き入れる端緒となったが、秀吉は出陣すると赤松三十六家衆に人質を出させ、但馬に侵攻して11月中旬に岩洲城、竹田城を攻略して秀長を入れた[70][74]。秀吉は次に11月27日、赤松政範の籠る播磨上月城を包囲し、竹中重治と孝高には福原城を攻撃させた。救援に来た宇喜多直家は遠巻きにするのみで、12月1日に福原城が落城し、3日に上月城も落ちた。秀吉は、政範の首を差し出して助命を嘆願する城兵を許さずに尽く切伏せ、上月城には尼子勝久・山中幸盛の主従を入れた[75]。10日、信長は播磨・但馬平定を喜び、恩賞として秀吉に乙御前釜を与えた[76]。
ところが、天正6年2月23日、7千の兵を率いて加古川城に入った秀吉との軍議の席で気分を害した別所賀相が、甥長治を説得して反旗を翻し三木城に籠城すると、志方城の櫛橋治家、神吉城の神吉長則、高砂城の梶原景行、野口城の長井四郎左衛門、淡河城の淡河定範、端谷城の衣笠範景と次々と呼応。秀吉は重棟に説得させたが長治は拒絶したので攻撃して4月3日に野口城を落すが、直家の要請で攻め寄せた毛利勢が上月城を包囲した[77]という報せで引き返す。秀吉は荒木村重と共に2万を率いて高倉山に陣取ったが、小早川隆景2万、吉川元春1万5千、宇喜多忠家1万4千からなる敵はさらに多勢であった。増援を求められた信長は自ら出陣すると言い出したが重臣が反対。結局、4月29日に滝川・明智・丹羽が、5月1日に信忠(総大将)・信雄(信意)・信孝・信包・長岡藤孝・佐久間信盛が出陣した[30][78]。戦線が膠着すると、6月16日、秀吉は京に戻って信長の下知を受け、上月城救援を断念して三木城攻囲に専念する。21日、高倉山から陣払いすると、7月3日、勝久は諦めて切腹し、上月城は落城した。6月27日より信忠は神吉城を攻めていて、三木城の兵糧道を断とうとした。7月16日に神吉城の天守閣は炎上。信盛の誘いで城将が投降し、志方城も明け渡された[79]。三木城は補給困難となり、毛利勢も撤兵して「三木の干殺し」が始まるが、10月に村重が謀反を起こし、政職も呼応して離反したために一時中断を余儀なくされる[80]。
天正7年2月、この機に別所勢は平井山の攻囲軍に逆襲を試みたが撃退され、治定が討死した[81]。村重は抗戦1年余の9月2日に有岡城を脱出して大物城に逃亡し、4日には宇喜多直家が秀吉の降誘に応じた。この調略は信長に無断であって激怒されたが、10日、毛利勢が海路から来て御着城・曾禰城・端谷城の城兵と共同し三木城へ兵糧を運ぼうとして平田村で谷衛好の砦を襲い、急を駆けつけた秀吉が大村で迎撃して大勝したので、その際に許されて信長より感状を受けた[82]。 天正8年1月17日、三木城はついに屈服し、城兵を助けるという条件で別所一族は尽く自害した[83]。4月、英賀城を落して播磨をついに再平定し、秀吉は姫路城の改修普請を始めた。また再び秀長の軍を増強して有子山城の山名祐豊を降して但馬を平定した[84]。対して吉川元春・元長の軍勢が伯耆に侵攻して羽衣石城の南条元続と岩倉城の小鴨元清を攻撃したので、6月6日、秀吉は因幡・伯耆に向かい、まず鹿野城を落して補給路を確保し、その際に鳥取城の山名豊国の娘を捕えたので、9月、豊国を単身投降させたが、家臣中村春続・森下道誉は徹底抗戦を主張[85]。
天正9年2月、鳥取城は吉川経家を大将として招き入れると籠城を始めた[85]。秀吉は事前に若狭商人を使って因幡の米を買占めて、6月25日に出陣すると城の全周に柵と堡塁を築いて、雁尾城・丸山城と通じる糧道を遮断した[86]。兵糧を運び込むことに度々失敗した毛利勢は雁尾・丸山城から撤退。飢餓状態の鳥取城は10月まで「鳥取の渇殺し」に堪えたが、ついに経家・道誉・奈佐日本介の3将の首を差し出して降伏することになり、24日、切腹して翌日投降した[87]。秀吉はさらに杉原家次をして吉岡城・大崎城を降伏させ、因幡を平定した[88]。元春は再び南条・小鴨兄弟の両城を攻撃して馬之山に陣をしいた。28日、秀吉もすぐに出陣したが、馬之山の守りが固いと見て、7日間対陣して戦わずに姫路に帰還[89]。11月8日に秀吉は池田元助と淡路に侵攻して岩屋城の安宅清康を下して平定。清康が追放された後は、元助を同城に入れた[90]。
天正10年3月5日、秀吉は山陽道に出陣。17日に跡取りの羽柴秀勝が備前の児島で初陣を飾った[91]。4月4日、宇喜多秀家の岡山城に入城。対する小早川隆景は備中の高松城、宮路山城、冠山城、加茂城、日幡城、松島城、庭瀬城の7城の城主を三原城に集めて警戒を命じていたが、14日、秀吉は宇喜多勢と龍王山と八幡山に陣して、高松城の包囲を準備し、他方で支城の攻略を目指した。25日に冠山城が陥落して林重真が切腹。5月2日に乃美元信が開城して宮路山城を退去し、加茂城では生石治家が寝返ったが桂広繁が戸川秀安の強襲を撃退して辛うじて本丸を守った。7日、秀吉は蛙ヶ鼻に陣を移し、足守川を堰き止めて高松城を水没させた[92]。15日、秀吉は信長に状況を知らせ、毛利勢の総大将が間もなく出陣すると報告した。2日後、これを聞いた信長は、明智光秀らに出陣を命じた。21日、輝元・元春・隆景の総勢3万の援軍が到着したが、毛利勢は秀吉の堅陣を崩すことは難しいと判断し、さらに信長出陣の噂を聞いて、講和交渉のために逆に守将清水宗治を説得していたところに、変が起こった[93]。
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