研究史上の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)
本能寺の変は当時最大の権力者であった信長が死亡し、時代の大きな転換点となった事件であり、小和田哲男は戦国時代における最後の下剋上と評している。信長を討った光秀がその動機を明らかにした史料はなく、また光秀の重臣も短期間でほとんど討たれてしまったため、その動機が明らかにされることはなかった。更に光秀が送った手紙等も後難を恐れてほとんど隠蔽されてしまったため、本能寺の変の動機を示す資料は極めて限定されている。小和田は「日本史の謎」と表現している。「永遠のミステリー」といった表現が行われることもある。 明治以降、本能寺の変というテーマは何度も研究家に取り上げられ、通史の中で触れられてきた。東京帝国大学教官の田中義成、渡辺世祐、花見朔巳、牧野信之助などのほか、近世日本国民史の著者である徳富蘇峰も持論を述べている。しかし、織豊期・日本中世史の研究者が謀反の動機を究明する動きは一貫して低調であった。呉座勇一によれば、現在の日本史学会においては光秀が謀反を起こした理由は重要な研究テーマと見られておらず、日本中世史を専門とする大学教授が本能寺の変を主題とした単著は極めて少ない。呉座は該当する単著は藤田達生の『謎とき本能寺の変』ぐらいであろうとしているが、この本も信長権力の評価に重点が置かれている。本能寺の変の歴史的意義としては信長が死んだことと秀吉が台頭したことであり、光秀の動機が何であれ、黒幕がいたとしても後世の歴史に何の影響も与えておらず、日本中世史学会において光秀の動機や黒幕を探る議論は「キワモノ」であると見なされている。在野史家の桐野作人はそのような学会での評価を踏まえた上で、本能寺の変の真相を究明することで織田権力内部における固有の矛盾の有り様や織田権力末期の実態を解明できるかもしれないとしている。 しかし史料が存在しないということは、裏返すと個人の推理や憶測といった想像を働かせる余地が大きいということであり、中世史研究家ではない「素人」でも参入しやすい。このため、在野の研究家のみならず、専門の中世史研究家ではない小説家・作家といった多くの人々が自説を展開してきた。呉座はこれほど多くの説が乱立している日本史上の陰謀は他にないと評している。
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