TBSプロレスとして再起動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:40 UTC 版)
「国際プロレス」の記事における「TBSプロレスとして再起動」の解説
吉原はTBSとフジテレビに対してテレビ中継に関する交渉を開始し、TBSも1967年1月に国際プロレスへの信用調査を開始し、同年2月に「定期放送に値する団体である」と結論付け、上申書には「猪木とマツダの試合を放送するのが絶対条件」の一文を付け加え、TBSは吉原に対して猪木の国際プロレス入団を要請した。TBS社長の今道潤三は1967年4月4日の記者会見で、「プロレス中継参入に関して検討しており、国際プロレスとの打ち合わせを開始した」と会見した一方で、2日後の4月6日には猪木の日本プロレス復帰会見が行われ、これによりTBSによる猪木の国際プロレス入団計画は頓挫した。最終的にTBSとフジテレビの2局とも放送にゴーサインを出したが、吉原はTBSを選択した。そして同年9月11日、TBSとの放映契約が締結され、調印式には国際プロレス側からは吉原が、TBS側からはTBS運動部部長の鶴田全夫とTBS運動部副部長の森忠大が出席した。国際プロレスは資金調達の名目で、吉原の早稲田大学時代の友人である森の仲介により、広島の乳業会社社長だった岩田弘に株を譲渡して融資を仰いだ。この結果、岩田が国際プロレスの新しいオーナーとなり、TBSのバックアップを受ける形で仕切り直しを行うこととなった。また、同時期にヒロ・マツダが負債処理方法をめぐって吉原と対立し、国際プロレスを離脱。マツダに代わる外国人招聘のブッカーとして、4年前に日本プロレスの契約を打ち切られたグレート東郷が迎えられた。 同年11月7日、TBSによる全国中継開始の記者会見が行われ「来年1月からの中継開始」が発表された。会見には鶴田と森および岩田が出席したが、吉原は姿を現さなかった。そのため、吉原はTBSと岩田によって蚊帳の外に追いやられ、団体の運営を彼らに掌握されたと考えられていたが、当時の吉原は国際プロレスが赤字続きだったため多重債務を抱えており、公の場に出られる状況ではなかったという。東郷にブッカーを委ねたのは吉原自身であり、放送責任者の森はテレビ中継、新オーナーの岩田は経営と、それぞれの立場から団体運営のハードの部分には携わっていたものの、ブッキングやマッチメイクなどリングの上に関するソフトの部分には、それほど関与していなかった。 1967年12月22日、森が記者会見を行い「TBSが放送する番組名並びに団体名はTBSプロレスとする」と発表した。そして1968年1月、TBSのネームバリューを活かして団体名を『TBSプロレス』と改称し、ルー・テーズ、ホッジ、ハンス・シュミット、ワルドー・フォン・エリック、ブルドッグ・ブラワー、レフェリーのフレッド・アトキンスなどの豪華外国人を招聘して第1弾シリーズの『オープニング・ワールド・シリーズ』を開幕。当日は力道山の未亡人である百田敬子、息子である百田義浩と百田光雄も招待されていた他、大相撲力士時代の天龍源一郎も観戦に訪れていた。森の意向で新人のグレート草津がエース候補に抜擢され、テレビ中継は『TWWAプロレス中継』として開始した。1月3日のテレビ放映第1戦は前述の「大阪夏の陣」以来となる日本プロレスの蔵前国技館とTBSプロレスの日大講堂の同一日興行となり、「隅田川の対決」または「隅田川決戦」などと呼ばれマスコミの話題となった。日本プロレスは、当初は1月4日に岡山でシリーズを開幕させる予定だったが、TBSプロレスの日大講堂大会が開催されることを聞きつけたために、急遽割増使用料を支払って蔵前でのシリーズ開幕に変更して興行をぶつけた。日本プロレスのメインイベントは馬場VSクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル・ヘビー級王座戦で、当日は水曜日だったが日本テレビは17時30分から1時間枠で特番枠で放送、国際プロレスのメインイベントはテーズに草津が挑戦したTWWA世界ヘビー級王座戦で19時からの放送開始に合わせて行われた。しかし、草津はテーズのバックドロップに失神KO負けを喫し、新エース誕生というTBSの構想は頓挫、興行面でも「大阪夏の陣」同様、再び日本プロレスに惨敗してしまう。以降プロレス界は日本テレビとTBSのテレビ2局の対立時代に入った。TBSが支払うテレビ放映権料は1回あたり220万円と、日本テレビが日本プロレスに支払う放映権料(1回あたり200万円)を上回っていた。 ところが、『TWWAプロレス中継』の開始から間もなく、プロレス業界の前時代的な経営体質に失望した岩田が吉原と決別して撤退。リング上においても、草津が1月8日に鹿児島県体育館でテーズとの再戦を行うも再び敗退。放送第2週の1月10日の大分県立荷揚町体育館ではサンダー杉山をテーズにぶつけるが杉山も敗れ、1月12日には九電記念体育館で豊登がテーズと対戦したが、豊登も敗退してしまう。放送第3週の1月17日には、仙台・宮城県スポーツセンターにおいて豊登VSテーズの再戦が予定されていたが、東郷は豊登に代わって日本プロレスから大木金太郎を引き抜いてテーズと対戦させようと計画、大木も一旦は承諾して仙台へ向かったものの、日本プロレスにもこの情報が入り、引き留め工作により大木の引き抜きは失敗に終わった(試合は当初の予定通り豊登VSテーズ戦が行われ、テーズが勝利。その翌日の1月18日、日本プロレスのユセフ・トルコと松岡巌鉄が東郷の宿泊先に押しかけて暴行を加えるという事件が起き、警察沙汰となって一般新聞でも大きく報道された)。 さらに同年2月19日の『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』静岡県浜松市体育館大会では、ブッキング料を巡る金銭上のトラブルから、招聘した外国人選手(アル・コステロ&ドン・ケントのファビュラス・カンガルーズ、フレッド・カリー、『オープニング・ワールド・シリーズ』から残留参戦したホッジとブラワー)の試合出場を東郷がボイコットする事件が発生。この影響で2大会を日本人選手のみの興行とし、2月21日放送の『TWWAプロレス中継』は急遽、前月の1月12日に行われた九電記念体育館大会の録画中継に変更された。ボイコット翌日の2月20日に団体側が記者会見を行い、東郷との絶縁を発表。2月23日には東郷と外国人選手が会見し、団体との契約を破棄して帰国することを発表した。
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