PTボートの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 05:26 UTC 版)
PTボートは、ありとあらゆる任務を想定して製造された。日本の輸送船団攻撃によく使われた。また自分よりはるかに大型の巡洋艦を魚雷で攻撃したり、諜報部員を敵地に送り届ける際にも使われた。アメリカ海軍の父ジョン・ポール・ジョーンズは「早い船があれば如何なる状況も切り抜けられる」と言った様に、スピードは船の命である。PTボートが小型ながら戦果を挙げられたのは、魚雷のおかげである。 魚雷を主武装とし、軽快な運動性を持つ魚雷艇は、第一次世界大戦において英伊海軍などで運用され、1918年6月10日、オーストリア=ハンガリー帝国の戦艦「セント・イシュトヴァーン」がイタリアの魚雷艇に撃沈され大きな戦果を挙げた。この1件で小型魚雷艇の威力は証明された。しかし周囲を広大な海に囲まれているアメリカで、アメリカ海軍は外洋での作戦を重視していたため、巨大戦艦や航空母艦の開発に力を入れ、海峡や沿岸部で戦う為の魚雷艇を必要としておらず、魚雷艇の研究開発には不熱心だった。 1920年~1930年代にかけて、アメリカではスピードを競うことが最高の娯楽だった。水面を高速で駆け抜けるモーターボートのレースには、大勢の観客が詰めかけた。このモーターボートに使われた技術が後のPTボートに取り入れられる様になる。一人のイギリス人がモーターボートレースに革命を起こした。男の名は、ヒューバート・スコットペイン。時代を先取りしたボート、ミス・ブリテン3号でレースに出場した。しかし惜しくもアメリカ人のガーウッドに敗れてしまった。スコットペインやガーウッドのボートは時速180km以上の速度が出せた。PTボートを設計する際、これらの船が参考になった。その結果、時速80km以上で航行できるPTボートが出来上がったのである。 1930年代後半に入り、欧州での緊張が高まるとイギリス海軍のMTBやドイツ海軍のSボートといった各国の魚雷艇の整備が伝えられるようになった。また、1931年9月、日本が満州を占領し、極東で緊張が高まる対日関係の悪化から、フィリピン諸島を中心とする太平洋地域の防備を強化するため、高速の攻撃用魚雷艇の配備を進めるべきだと言う意見も強くなった。これらを受けアメリカ海軍は、魚雷艇に「PT」の類別コードを与え、正式にその整備に乗り出すこととした。 1939年、PTボートの試作型が8種類造られたが、どれも時代遅れなものだった。米海軍はスコットペインの船に目をつけた。スコットペインはスピードマニアだった。また、本業は飛行機の設計をしていたので、強力なエンジンや軽量な素材に精通していた。これらの航空技術を応用し、モーターボートを造ったのである。スコットペインは同年、「PV-70」という船を完成させた。アメリカはこれに興味を持った。アメリカ海軍のアーヴィン・チェイスとエルコ社の設計主任がイギリスに渡り、PV-70を視察した。実物を見て時代の先をゆくその性能にたいそう驚いた、という。アメリカは、理想の船を見つけた。アメリカ海軍にとって高性能な魚雷艇を開発する事は最優先任務となった。第二次世界大戦の開戦の2日後、スコットペインとPV-70がニューヨークに到着した。PV-70はPT-9型と名前を変え、米海軍の試乗が始まった。その際の操縦はスコットペイン自らが行い、彼の造船技術には米海軍の士官も驚いた。1940年1月、PT-9型をベースに、エルコ社がPTボートの開発を開始した。 アメリカ海軍内には小型高速戦闘艇の設計に関する蓄積がほとんどなかったため、米海軍での設計と平行して1941年7月に米海軍で採用するための公募競作が行われ、プライウッド・ダービー(ベニヤ板のダービー)と呼ばれる2度にわたるシェイクダウンクルーズを経てエルコ社の80フィート艇とヒギンズ社の78フィート艇の量産が決定された。大量の兵器を搭載するため、若干、船体が延長された。これが魚雷艇部隊の主力となる。またこれとは別にヴォスパー社の70フィート艇がイギリス・ソ連向けとして量産された。
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