2004年 - 2013年
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「ブラッド・ピット」の記事における「2004年 - 2013年」の解説
2004年の映画『トロイ』ではアキレスを演じるにあたり、撮影の6カ月前から剣の訓練をした。撮影中にアキレス腱を怪我して製作が数週間遅れるなどしたが、同作は全世界で4億9700万ドルを売り上げ、当時の自身の出演作品の中で最も商業的に成功した作品となった。『ワシントン・タイムズ』のスティーヴン・ハンターは、「ピットはこういった過酷な役柄を演じさせると優れている」と評した。同年公開の『オーシャンズ12』は世界で3億6200万ドルを売り上げ、ピットとクルーニーのダイナミックさは「ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード以来の相性」であるとCNNのポール・クリントンにより評された。 2005年、アクション・コメディ映画『Mr.&Mrs. スミス』に出演。作品自体は平凡な評価だったが、作中でのピットとアンジェリーナ・ジョリーのコンビネーションに関しては概ね好評を得て、興行的にも成功し2005年のヒット作のひとつとなった。 翌2006年、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』でケイト・ブランシェットと共演。この作品はゴールデングローブ賞 作品賞(ドラマ部門)を受賞し、またアカデミー作品賞にもノミネートされ、ピット自身もゴールデングローブ賞助演男優賞にノミネートされるなど好評を得た。ピットは後にこの映画への出演を自分のキャリアで最高の選択の1つだったと語っている。 2007年には西部劇ドラマ『ジェシー・ジェームズの暗殺』でアメリカのアウトローであるジェシー・ジェイムズを演じた。同作はピットが経営する会社プランBエンターテインメントで製作された。『フィルム・ジャーナリスト・インターナショナル(英語版)』のルイス・ビール(英語版)によるとピットは「恐ろしくカリスマ的」な役割を果たしているとされ、ヴェネツィア国際映画祭 男優賞が与えられた。また、ピットはプロモーションのために同映画祭に出席。途中、ボディガードを押しのけて現れたファンによって抱きつかれるというハプニングがあったが、無事に2008年の同映画祭会場で男優賞のトロフィーを手にした。 2008年、ブラック・コメディ映画『バーン・アフター・リーディング』に出演し、初めてコーエン兄弟とコラボレーションした。同作は批評家から肯定的な評価を受け、『ガーディアン』誌では「しっかりと巻かれた、巧みなスパイコメディのプロットで、ピットの演技が面白さの一つである」とした。同年、デヴィッド・フィンチャー監督の『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』に主演。老人の姿で生まれた男が齢を取るごとに若返ってゆくという物語で、『ボルチモア・サン(英語版)』のマイケル・スラゴウ(英語版)は「ピットの繊細な演技が『ベンジャミン・バトン』を不朽の名作に作り上げている」と高く評した。同作の演技により、初めて全米映画俳優組合賞にノミネートされ、さらに4度目となるゴールデングローブ賞、2度目となるアカデミー賞ノミネートも果たした。同作はアカデミー賞では合計13部門でノミネートされ、全世界での興行収入は3億2900万ドルに達した。 また、同年はクエンティン・タランティーノ監督の『イングロリアス・バスターズ』にも主演。ドイツ占領下のフランスでナチスと戦うアメリカ軍人のアルド・レイン中尉を演じた。この作品は興行的にも成功し、評論家にも高評価された。同作はアカデミー賞を含む多くの映画賞にノミネートされており、ピット自身もMTVムービー・アワード演技賞にノミネートされた。翌2010年にはアニメ映画『メガマインド』でスーパーヒーローのメトロ・マンの声を務めた。 2011年、パルム・ドールを受賞したテレンス・マリック監督の『ツリー・オブ・ライフ』でショーン・ペンと共演。また同年、実話を原作としたドラマ映画『マネーボール』でオークランド・アスレチックスのゼネラル・マネージャーのビリー・ビーンを演じ、批評家から強力な支持を集め、ピットは再びアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。 2013年には主演のパニック超大作『ワールド・ウォー Z』が世界興行収入5億0260万ドルに達し、過去最高の興収記録を更新した。
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2004年~2013年
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「皆川賢太郎」の記事における「2004年~2013年」の解説
2005年~2006年シーズンのアルペンスキー・ワールドカップシリーズのスロベニア・クラニスカゴラ大会で7位に入り、再び上昇の兆しを見せていた。2006年の第5戦スイス・ヴェンゲン大会で自己最高の4位をマーク。シュラドミング大会でも6位に入り、輝きを取り戻した。 2006年トリノオリンピック・男子回転では1本目トップと0.07秒差の3位につけた。メダルを狙ってスタートした2本目、スタート直後にバックルが外れるというアクシデントがあったが、最後まで攻め続け、3位と0.03秒差の4位と僅かの差で日本人2人目のアルペン競技表彰台を逃したものの、7位の湯浅直樹とともに1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックの猪谷千春以来、50年ぶりの日本人選手の入賞となった(日本人が2人同時に入賞するのは史上初であった)。このことはフィギュア女子・荒川静香の金メダル獲得などで日本のメディアではあまり報道されなかったが、アルペンの本場のヨーロッパ圏では大きく報道された。この4位入賞により第1シードに復帰した。 オリンピック後、初のアルペンスキー・ワールドカップ・志賀高原大会で6位に入賞。 2006年、11月12日、ワールドカップ開幕戦のフィンランド・レヴィ大会で13位入賞。11月29日、アメリカで行なわれたワールドカップの1ランク下の大会、コンチネンタルカップ・北米カップで優勝した。しかし、12月8日、オーストリアで練習中に右膝前十字靭帯を損傷し、2006年〜2007年シーズンの残りは治療に専念することになった。 2010年バンクーバーオリンピックでは、スタート直後に棄権となり、2回目の滑走には進めなかった。 2010年バンクーバーオリンピック直後、現役続行を表明し、2011年〜2012年シーズンより実戦復帰を果たし、2012年〜2013年シーズンはFar East Cupで総合優勝を果たす。
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