2号電話機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 06:41 UTC 版)
2号電話機は、1909年(明治42年)、逓信省によって制式化・提供開始された。 卓上型 スタンド型の送話器に、独立したラッパ型受話器を受け止めるフックの付いた形態をしている。第二次世界大戦後のアメリカ映画などで有名になったスタイルだが、日本でも生産・使用されていたことは、一般にはあまり知られていない。理由は後述する。なお、塗装は黒だが、一般には「黒電話」の範疇には含まれない。 壁掛け型 木製の箱型きょう体を持ち、ベル装置は上部に備え、正面に送話器を固定している。受話器は卓上型と同じく、独立したラッパ型受話器で、きょう体右側面にフックが付いている。第2次世界大戦前後で日本の電話機といえば、このスタイルであった。 共電式 ガワーベル電話機の後、局呼び出しのための手回し発電機を備えた、デルビル磁石式電話機が輸入・国産化され、日本の電話機はほぼこれに統一されていた。しかし、磁石式電話機は伝送用に直流1次電池を使用し、これを端末(電話機)側に搭載していたため、定期的に交換が必要であり、保守面で手間がかかった。 そこで、線路に局側から48Vの電源を常時給電し、これを伝送・呼び出し用の電源として使用する共電式が登場し、端末数の多い都市部から、順次転換されていった。交換方式は手動だが、局呼び出しにも共用電流が使用され、受話器をはずす(オフフック)と、局側の交換手呼び出し装置(通常はランプ)が作動する仕組みであった。共電式は端末側の保守はほぼ不要となったが、当時は絶縁技術が未熟で、特に当時の日本はまだ工業途上国であったため、導入初期においては、線路の漏電などのトラブルが多発した。2号電話機は、この共電式の採用に伴って開発、提供された。一方、共電式とならなかった地方の加入電話回線では、引き続きデルビル磁石式電話機が使用された。 自動式 都市部、特に首都である東京での電話加入者数の増加は著しかったが、従来の交換手が手作業で回線を接続する形態では、一層の増強が困難となった。 1923年(大正12年)の関東大震災からの復旧を契機として、日本でもダイヤルパルス信号による自動交換方式を導入することとなり、1926年(大正15年)、東京に日本初の自動交換機が導入された。 この自動交換機用の電話機端末として、2号共電式電話機にダイヤル装置を備えた2号自動式電話機が開発された。 卓上型では、その構造、また日本の工業水準から鑑みて、自動交換用の回路を全て内蔵することは現実的ではなかったため、ベル装置や一部の回路を木製の別筐体に収納した。ダイヤルは本体の正面に装備された。 壁掛け型はその点、筐体の容積に余裕があったため、全て一体の筐体内に収められた。しかし、正面面積がダイヤル取り付けに不足したため、サイズは天地方向に拡大された。 当初搭載された1号ダイヤル(5接点)では、ダイヤル中の伝送回路を完全に音声回路と切り離すことができず、大きなノイズが受話器に(当然送話器にも)流れ込んだ。また、1号ダイヤルは、従前の共電式と同じ直流48Vを基礎に設計していたが、引き続いて横浜に投入されたH型自動交換機では、有効線路長の延長を目的として局電源を60Vに上げたため、絶縁不良を引き起こした。そのため、音声回路へのノイズを低減した、60・48V共用・6接点の2号ダイヤルが開発され、以降、小改良を加えつつ600形の登場まで標準形式として使用された。現在1号ダイヤル装着の電話機はほぼ一般に入手不可能だが、極まれにネットオークションなどで出品される2号電話機(壁掛け式は後述の23号も含め残存率が高い)に1号ダイヤル機が存在している場合がある。もっとも古い機種だけに今のNTT回線網(局給電・定格電圧48V、実際には下限42V上限53V)に接続すると、火を吹く危険性が非常に高い。もし電話機を入手しても絶対にNTT回線網やIP電話終端装置には接続してはならない。
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