2号ドックの建設とは? わかりやすく解説

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2号ドックの建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:58 UTC 版)

横須賀海軍施設ドック」の記事における「2号ドックの建設」の解説

3号ドック完成した後の明治8年1875年)末、ヴェルニーは横須賀造船所の長を退任し、翌明治9年1876年)、短期間顧問務めた後、同年3月にはフランスへ帰国した帰国前、ヴェルニーは報告書提出しているが、その中で東京湾出入りする大型船修理が可能である、大規模なドライドック建設する必要性がある」との内容記していた。折りしも明治政府明治8年1875年)から海軍力増強計画開始していた。また当時保有していた軍艦多く老朽艦であり、海軍の増強に伴い艦船の数も増加していた。そのため横須賀ドライドック需要増大していき、修理追いつかない状態になっていた。 明治政府財政難原因で、待ち望まれ大型ドック着工は遅れることになったが、明治11年1878年1月横須賀造船所中牟田倉之助から海軍大輔川村純義提出された、財政難によって着工先延ばしになっている3基目のドライドック建設したいの上申書に基づき2号ドック着工決定された。 建設決定した2号ドック設計は、フランス人建築課長のジュエットが担った明治11年1878年5月1日、ジュエットは契約期間満了したが、建設予定2号ドック設計携わっていたため契約延長された。ジュエットは明治13年1881年5月1日契約満了となり、2号ドック着工前にして帰国することとなった。 ジゥエットの後任として2号ドックの建設を指揮したのは、ヴェルニーの発案によって横須賀製鉄所内に設けられ技術者養成施設である「黌舎」で、造船工学土木工学学んだ技術者恒川柳作であった1号3号ドックフランス人技術者中心として建設進められたものが、2号ドック建設時には設計こそフランス人技術者によってなされた施工日本人が担うこととなり、日本人技術着実に習得してきたことを示している。なお恒川2号ドック建設終了後呉鎮守府佐世保鎮守府舞鶴鎮守府異動していき、それぞれの地でドライドック建設携わり、さらに横浜横浜船渠設計も行うなど、まさに日本ドライドック建設草分け的な存在となったこのように横須賀でヴェルニーなどから学んだ技術日本各地へと広まっていった。 2号ドック明治13年1880年7月着工された。建設予定地には白仙山呼ばれた標高45メートル硬い土質の丘があり、まず丘を崩しその後ドック本体開削始められた。なお建設時生じた残土横須賀造船所東側埋め立て利用され、約7000坪の埋立地造成された。 工事記録によればドック建設の際、最も難航したのがドック予定地前の海を締切堤仕切る工事であったという。海を締め切る堤を建設する工事難工事であり、しかも1号ドック3号ドックの時と異なり日本人のみで作業取り掛からねばならなかった。排水ポンプ2基を作動させながら作業進め成功裏工事が行われると多くの人から賞賛受けた伝えられるドック用いられる石材は、1号3号ドック同じく真鶴から熱海にかけて産する安山岩質の新小松石用いられた。なお明治8年1875年)には日本国内セメント工場完成しており、2号ドックではイギリス産と並んで国産ポルトランドセメント用いられた。また第3号ドック用いられと見られる石灰などを原料としたセメント用いられたと考えられる2号ドック明治17年1884年7月21日完成が行われ、北白川宮能久親王海軍卿川村純義らが参列した2号ドック全長は156.5メートル達し、これは当時明治初期日本建設され最大規模ドライドックであり、東洋一大きさであった考えられる2号ドック3号ドック同じくドック床面傾斜つけられているが、傾斜3号ドック約半分となっている。またドック奥は半円形をしていて斜路設けられている点も共通している。2号ドック周囲には軌間1078ミリ線路巡っている。この線路用途不明であるが、ドック建設時石材運搬用に線路敷設されたとの記録残っているためその線路であるか、またはドック入りした船舶修理資材運搬するために敷設され線路であると考えられている。 2号ドック最大特徴は、ドック中央部にも扉船を繋ぐ戸当り構築されドック2分割して60-70メートル級の船舶2隻を同時にドック入りすることが可能な構造であったことである。このため2号ドックではドック前部後部の2か所に排水口設けていた。このような2分割して利用できる仕組み備えたドライドックは、日本では第2号ドックしか作られなかったが、増大する船舶修理需要満たすため、このような構造採用したものと考えられている。しかし艦船規模大型化に伴い明治30年1897年)に改修工事実施されドック中央部戸当り撤去されドック2分割使用することは出来なくなり通常の全長156.5メートルドックとして使用されるようになった明治20年1887年)までに完成した日本ドライドックは、横須賀造船所建設されドック以外に、工部省長崎造船所1号ドック大阪鉄工所ドックがあったが、両ドックとも現在は既に存在せず横須賀海軍施設現存し現役ドックとして稼動続けている1号ドック2号ドック3号ドック極めて貴重な土木遺産であり、東京大学生産技術研究所村松貞次郎教授は、「もし他の自由な場所にあった文句無く国の第一級史跡であり、文化財である」と高く評価した

※この「2号ドックの建設」の解説は、「横須賀海軍施設ドック」の解説の一部です。
「2号ドックの建設」を含む「横須賀海軍施設ドック」の記事については、「横須賀海軍施設ドック」の概要を参照ください。

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