2号ドックの建設
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「横須賀海軍施設ドック」の記事における「2号ドックの建設」の解説
3号ドックが完成した後の明治8年(1875年)末、ヴェルニーは横須賀造船所の長を退任し、翌明治9年(1876年)、短期間顧問を務めた後、同年3月にはフランスへ帰国した。帰国前、ヴェルニーは報告書を提出しているが、その中で「東京湾を出入りする大型船の修理が可能である、大規模なドライドックを建設する必要性がある」との内容を記していた。折りしも明治政府は明治8年(1875年)から海軍力の増強計画を開始していた。また当時保有していた軍艦の多くが老朽艦であり、海軍の増強に伴い艦船の数も増加していた。そのため横須賀のドライドックの需要は増大していき、修理が追いつかない状態になっていた。 明治政府の財政難が原因で、待ち望まれた大型ドックの着工は遅れることになったが、明治11年(1878年)1月に横須賀造船所長中牟田倉之助から海軍大輔川村純義に提出された、財政難によって着工が先延ばしになっている3基目のドライドックを建設したい旨の上申書に基づき、2号ドックの着工が決定された。 建設が決定した2号ドックの設計は、フランス人建築課長のジュエットが担った。明治11年(1878年)5月1日、ジュエットは契約期間が満了したが、建設予定の2号ドックの設計に携わっていたため契約が延長された。ジュエットは明治13年(1881年)5月1日に契約満了となり、2号ドックの着工を前にして帰国することとなった。 ジゥエットの後任として2号ドックの建設を指揮したのは、ヴェルニーの発案によって横須賀製鉄所内に設けられた技術者養成施設である「黌舎」で、造船工学と土木工学を学んだ技術者の恒川柳作であった。1号、3号ドックはフランス人技術者を中心として建設が進められたものが、2号ドック建設時には設計こそフランス人技術者によってなされたが施工は日本人が担うこととなり、日本人が技術を着実に習得してきたことを示している。なお恒川は2号ドック建設終了後、呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府へ異動していき、それぞれの地でドライドック建設に携わり、さらに横浜で横浜船渠の設計も行うなど、まさに日本のドライドック建設の草分け的な存在となった。このように横須賀でヴェルニーなどから学んだ技術は日本各地へと広まっていった。 2号ドックは明治13年(1880年)7月に着工された。建設予定地には白仙山と呼ばれた標高約45メートルの硬い土質の丘があり、まず丘を崩しその後にドック本体の開削が始められた。なお建設時に生じた残土は横須賀造船所の東側の埋め立てに利用され、約7000坪の埋立地が造成された。 工事記録によればドック建設の際、最も難航したのがドック予定地前の海を締切堤で仕切る工事であったという。海を締め切る堤を建設する工事は難工事であり、しかも1号ドック、3号ドックの時と異なり日本人のみで作業に取り掛からねばならなかった。排水ポンプ2基を作動させながら作業を進め、成功裏に工事が行われると多くの人から賞賛を受けたと伝えられる。 ドックに用いられる石材は、1号、3号ドックと同じく真鶴から熱海にかけて産する、安山岩質の新小松石が用いられた。なお明治8年(1875年)には日本国内にセメント工場が完成しており、2号ドックではイギリス産と並んで国産のポルトランドセメントが用いられた。また第3号ドックで用いられたと見られる、石灰などを原料としたセメントも用いられたと考えられる。 2号ドックは明治17年(1884年)7月21日に完成式が行われ、北白川宮能久親王、海軍卿川村純義らが参列した。2号ドックの全長は156.5メートルに達し、これは当時明治初期に日本で建設された最大規模のドライドックであり、東洋一の大きさであったと考えられる。 2号ドックは3号ドックと同じくドック床面に傾斜がつけられているが、傾斜は3号ドックの約半分となっている。またドック奥は半円形をしていて斜路が設けられている点も共通している。2号ドックの周囲には軌間1078ミリの線路が巡っている。この線路の用途は不明であるが、ドック建設時に石材運搬用に線路が敷設されたとの記録が残っているためその線路であるか、またはドック入りした船舶の修理用資材を運搬するために敷設された線路であると考えられている。 2号ドックの最大の特徴は、ドック中央部にも扉船を繋ぐ戸当りが構築され、ドックを2分割して60-70メートル級の船舶2隻を同時にドック入りすることが可能な構造であったことである。このため2号ドックではドック前部と後部の2か所に排水口を設けていた。このような2分割して利用できる仕組みを備えたドライドックは、日本では第2号ドックしか作られなかったが、増大する船舶修理需要を満たすため、このような構造を採用したものと考えられている。しかし艦船の規模の大型化に伴い、明治30年(1897年)に改修工事が実施され、ドック中央部の戸当りが撤去されてドックを2分割で使用することは出来なくなり、通常の全長156.5メートルのドックとして使用されるようになった。 明治20年(1887年)までに完成した日本のドライドックは、横須賀造船所で建設されたドック以外に、工部省長崎造船所1号ドック、大阪鉄工所ドックがあったが、両ドックとも現在は既に存在せず、横須賀海軍施設に現存し、現役ドックとして稼動し続けている1号ドック、2号ドック、3号ドックは極めて貴重な土木遺産であり、東京大学生産技術研究所の村松貞次郎教授は、「もし他の自由な場所にあったら文句無く国の第一級史跡であり、文化財である」と高く評価した。
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