恒川柳作とは? わかりやすく解説

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恒川柳作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/19 06:00 UTC 版)

恒川 柳作(つねかわ りゅうさく 1854年5月 - 1914年1月24日)は、日本の海軍技師横浜船渠第一号船渠(重要文化財)などのドライドックを建設したことで知られる。

経歴

1854年(安政元年)生まれ(神奈川県士族)。1869年(明治2年)横須賀造船所黌舎の官費生となる。「黌舎」はフランス人技術者による造船所内の学校である。1873年、黌舎を卒業し、海軍省の主船寮に出仕。以後、横須賀造船所で財産調査掛、外国費掛、通訳掛、建築課を務める。1886年(明治19年)、海軍省技手。第二海軍区鎮守府(呉)建築委員。1889年(明治22年)、呉鎮守府勤務、海軍省技師[1]。その後、築城部横須賀支部などに勤務。

この間に横須賀の2号ドックをはじめ、呉鎮守府、佐世保鎮守府舞鶴鎮守府でドライドックを建設、商用の横浜船渠のドックを設計した。

1906年(明治39年)8月、依願免職[2]

1914年大正3年)1月24日、心臓麻痺で急逝、享年61。

栄典

作品

家族

  • 娘・(-1911) ‐ 風間礼助と結婚したが、早世。[5]
  • 長男、恒川陽一郎 (1888-1916) ‐ 谷崎潤一郎東京府立一中以来の友人で文学青年。人気芸妓萬龍と結婚し、小説『旧道』を著した。四高一高を経て東京帝大仏法科卒。高級住宅地の牛込佐内坂上の豪邸に暮らし、学友の谷崎や大島堅造は恒川家の支援を受けたという[5]。自伝的な小説をいくつか書いたほか、谷崎の小説にも登場、小山内薫の短編『梅龍の話』には大学生だった陽一郎が満龍と知り合うきっかけとなった洪水の話が出てくる[6]。慢性中耳炎により29歳で死去[5]。萬龍は岡田信一郎と再婚した。
  • 次男、恒川呉作 (1891-) ‐ 早稲田大学建築学科を卒業。陽一郎より家督を継ぎ、建築請負業を経営、神奈川県多額納税者[7]

注釈

  1. ^ 国立公文書館「官吏進退・明治二十二年官吏進退八・海軍省二」[1]
  2. ^ 国立公文書館「任免裁可書・明治三十九年・任免巻二十二」[2]
  3. ^ 『官報』第7091号・付録「叙任及辞令」1907年2月21日。
  4. ^ 以下、西澤論文参照
  5. ^ a b c 恒川陽一郎の大貫雪之助宛書簡紹介細江光、甲南女子大学
  6. ^ 梅龍の話小山内薫、「中央公論」1911(明治44)年12月、青空文庫
  7. ^ 恒川呉作『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年

外部リンク

  • 西澤泰彦「明治時代に建設された日本のドライドックに関する研究」(土木史研究 第19号 1999年5月)[3]
  • 「座談会:横浜港物語−開港から現在まで(3)」(有鄰 No.475 P3 2007年)[4]



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