2代目・高木守道
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「ミスタードラゴンズ」の記事における「2代目・高木守道」の解説
西沢に次ぐ「2代目ミスタードラゴンズ」とされる高木守道は、走攻守の三拍子揃った「球史最高の二塁手(セカンド)」と評される名選手である。 県岐阜商高校1年生時代には長嶋茂雄(当時は立教大学4年生、後に巨人入り)が指導に訪れた際に長嶋から「5年後だったら日本一の内野手になれる」と絶賛された。3年生の時には春のセンバツで準優勝を果たし、卒業後は早稲田大学進学が内定していたが、急遽オファーを受けて1960年に中日へ入団した。プロ1年目の同年5月には代走で公式戦初出場を果たすと二塁への盗塁を決め、その後初打席で初本塁打を記録した。 決して大柄ではなかったが、守備では堅実さに加えて見る者を魅了する華やかなプレーを見せ、打撃も確実性・一発長打を兼ね備えていたほか、走塁では投手の癖を見抜き、卓越したスライディング技術で出塁すると次の塁を狙った。また時折しか見せることはなかったが「捕球と同時にボールを持ち換え、重心移動と強い手首を生かして二塁に送球する」超ロングのバックトス・グラブトスを持ち味としており、この技術は「芸術品」「誰にも真似できない」と評された。このほか「どうやったら(走者を)アウトにできるか?」という発想からカバーリングにも一切手を抜かず、送球が逸れても相手がダイレクトで捕球できる位置を狙うなど、データ・観察力・自身の勘をも取り入れた大胆なポジショニングにも定評があり、妥協点のないプレーを支えるものとしてプレー・用具・普段の生活まですべてにおいてプロ野球選手として厳格であり続けた。1963年オフ、フロリダ野球留学でメジャーリーグベースボール(MLB)で使用されていた二塁手専用グラブの存在を知り、日本人選手として初めて導入した。 4年目の1963年には1番・二塁手の定位置に定着して2番・中利夫とのコンビで相手投手・守備陣を翻弄し、50盗塁を記録して初の盗塁王を獲得したほか、翌1964年には1試合5盗塁を含め42盗塁を記録し、1965年には初の打率3割達成とともに44盗塁で2度目の盗塁王を獲得した。そして1974年には前年までにV9を達成し前代未聞の10連覇を目指していた読売ジャイアンツ(巨人)を倒して球団史上2度目・20年ぶりのリーグ優勝に貢献し、同年の日本シリーズではロッテオリオンズに敗退したが敢闘賞を受賞した。 選手兼任コーチに就任した1978年には中日球団の生え抜き選手として初の通算2000本安打を達成し、翌1979年にも打率3割をマークしたが、1980年には1歳年上の巨人・王貞治の引退表明を受け「(王さんが引退しても自分が現役を続行したら)自分がリーグ最年長になってしまう」という理由から自身も現役を引退した。現役引退までに二塁手としてベストナインに7回選ばれたが、これは二塁手として史上最多記録であった。 現役引退後はコーチ・野球解説者を経て1992年には星野仙一の後任として監督に就任した。1994年には同率首位で並んでいた巨人とリーグ優勝を賭けてリーグ最終戦で直接対戦したが敗れてリーグ優勝はならず(10.8決戦)、翌1995年には成績不振のためシーズン途中で解任された。 2006年には野球殿堂入りを果たし、2012年に落合博満の後任として70歳の高齢ながら監督に復帰したが、2年目の2013年限りで退任。2020年1月17日に死去した(78歳没)。 高木が2度にわたって厳しい状況で監督業を引き受けた理由は『中日ドラゴンズHERO列伝』(ベースボール・マガジン社)にて「21年間の現役生活を過ごしたドラゴンズを愛するが故にだろう」と述べられている。現役時代を知らない世代からは「星野仙一の人気を合間を埋める地味な監督」「『サンデードラゴンズ』(CBCテレビ)の「高木チェック」で滅多に『ファインプレー』の評価をせず、『普通』の札しか上げない頑固親父」「短気なジョイナスおじいちゃん」とあまり高い評価をされていないが、『中日ドラゴンズ伝説2009』(オークラ出版)では「指揮官としての手腕は4回のリーグ優勝を達成した落合も参考にしている。監督人事の際には必ず候補に挙がるだけに関係者からの評価は高いようだ」と評されている。
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