2代目西川伊右衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 03:24 UTC 版)
満翁徳行の没後は、子の西川伊三郎(行名は元山満行)がタテカワ講の2代目を継承するが、嘉永2年(1849年)に没し、3代目を継いだのは2代目西川伊右衛門である。この西川伊右衛門は元の名を堀内伊織といい、タテカワ講3代目として、西川家の養子となり西川伊右衛門を襲名した。天保2年に御師小澤遠江の仲介により伯家神道を受け継ぐ白川家に入門し、天保12年には同家から立烏帽子・布斎服の許状を得ている。 白川家入門後、堀ノ内山王社(現在の稲毛神社)境内の浅間神社(当時は境内の富士塚に祀られていた)をタテカワ講の日常活動の拠点とし、宗教活動を行った。慶応元年(1865年)には、稲毛神社の境内に西川満翁徳行の33回忌を記念して、子の2代目西川伊三郎と石碑を建立している。富士講の行名は明山徳行といい、明山徳行が先達をしていた頃が川崎宿タテカワ講の最盛期であったが、幕府が町触れをもって富士講を禁止したこともあり、必ずしも平坦なものではなかった。幕府による禁止令は、主に俗の身分のものが病気平癒の加持祈祷を行っていることを禁じるものであったため、白川家門人となることで得られる神職の資格は俗の身分でないことを証明するという役割も果たした。
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