1990年代 - 引退
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1993年12月、田原はトウカイテイオーで有馬記念に優勝。同馬は前年の有馬記念でも田原が騎乗していたが11着と大敗、その後の休養から363日振りのレースでの勝利となり、田原がインタビューや口取り撮影で感極まり、涙を流す様子が話題となった。「大した馬だな、ちょっとでも勝利を疑って悪かったな」という思いから涙が出たと回想しており、トウカイテイオーが自身が騎乗した内の最強馬であるとしている。 翌1994年9月には史上11人目となる通算1000勝を達成。翌1995年以降、田原はマヤノトップガン、フラワーパーク、ワンダーパヒューム、ファイトガリバーに騎乗して次々とGI競走を制し、騎手生活晩年の3年間で8つのGIタイトルを獲得した。この前後の時期から漫画原作やエッセイなどの文筆活動を盛んに行うようになった。田原は当初1996年限りの引退を考えていたが、「自分に花を与えてくれた」マヤノトップガンとフラワーパークが1997年以降も現役を続行したため、これに合わせて引退を1年先延ばしにしていた。 1998年2月21日、2回京都競馬第9競走でメガラに騎乗し、2着。これを最後に騎手生活から退いた。翌22日、マックスビューティ、マヤノトップガンを所有する田所祐の勝負服を着用し、同じく調教師を引退する師匠・谷八郎らと共に引退式に出席した。通算8648戦1112勝、重賞65勝。通算1000勝以上で30代の内に引退した騎手は、田原が初めての例であった。
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1990年代 - 引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:06 UTC 版)
1989年から夏場にイギリス、フランスでスポット騎乗を行い、1990年にはアサティスでキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスに騎乗、3着という成績を残した。その後アメリカでも騎乗し、この頃より若手騎手に対して積極的に欧米に出て厳しいレースを実体験し、その技術を採り入れるよう進言を始めた。 翌1991年6月9日と7月7日には、それぞれ通算1万回騎乗(史上4人目)と1500勝(同3人目)を達成。1993年3月には日本騎手クラブ会長を務めていた郷原洋行の引退に伴い、その後任を務める。ラフプレーに伴う落馬事故による騎手の落命・引退に数々接してきた経験から、会長として特にレースにおける安全確保と、騎手のフェアプレー徹底の意識浸透に力を注いだ。また柴田自身の要請により副会長は岡部が務め、後に会長職も引き継がれた。 騎手会長就任から2カ月余りを経た5月30日、柴田はウイニングチケットに騎乗して長年の目標としていた東京優駿を制覇。デビュー24年目・通算19回目の騎乗でダービー優勝を果たした。ウイニングランの最中には約17万人の観客から「政人」コールでの祝福を受け、競走後のインタビューにおいては、「この勝利を誰に伝えたいか」との質問に対し「世界中のホースマンに、第60回日本ダービーを勝った柴田政人ですと伝えたい」との言葉を残した。当年、1988年以来の三桁勝利となる113勝、さらに年間616回の騎乗で戒告・減点なしという成績を残し、野平祐二以来36年ぶりの特別模範騎手賞と、ユネスコ日本フェアプレー賞実行賞を受賞した。 翌1994年は前年からの好調を維持し、年頭からランキングのトップを占め続けた。しかし4月24日、東京競馬第6競走において騎乗馬コクサイファーストが骨折・転倒し、柴田も頭から馬場に叩き付けられた。この事故で頸髄不全損傷ならびに左腕神経叢損傷という重傷を負い、休養を余儀なくされる。リハビリの後、8月11日には調教に騎乗する程度まで回復を見せたが、レースにおいて以前通りの騎乗ができないとの理由で、同年9月6日に引退を表明。翌1995年2月16日に調教師試験に合格し、同年2月26日を以て騎手を引退。中山競馬場にて引退式が行われた。
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