1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死の意味・解説 

1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:44 UTC 版)

朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の記事における「1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死」の解説

米朝枠組み合意」、「拉致講義」、および「南北基本合意書」も参照 1989年以降共産世界で民主化運動は、北朝鮮にも影響与えた。ことに北朝鮮友好国だったルーマニア社会主義共和国チャウシェスク体制崩壊しチャウシェスク書記長夫妻が軍により処刑され事件中国六四天安門事件最終的に軍の介入により沈静化した顛末は、北朝鮮政府に軍の地位重要性再認識させることとなった北朝鮮金正日への権力継承進めにあたり最高指導者が軍を掌握する体制確立努めた1990年にはペレストロイカ推進していたミハイル・ゴルバチョフの下でソ連韓国国交正常化した。南北統一悲願とする北朝鮮にとり、ソ連による韓国国家承認分断状態の是認考えられ大きな衝撃与えたこうした中で1990年9月から北朝鮮韓国は再び南北対話開始するが、この中で北朝鮮南北統一の形として一国二制度の形もありうるとの妥協案を提示したまた、1991年には非核化交渉開始し1991年12月には南北共同合意書及び非核化共同宣言採択されるに至った。同1991年には朝鮮民主主義人民共和国大韓民国国際連合同時加盟している。 一方日本との関係では、1991年から国交正常化のための日朝交渉開始されたが、拉致問題取り沙汰される北朝鮮態度硬化させた。さらに、1992年には韓国中国国交正常化し、これにより北朝鮮の立場はいよいよ追いつめられものになる1993年までに北朝鮮日朝交渉南北対話中断し核拡散防止条約NPT)からの脱退宣言する北朝鮮の核問題に対してアメリカ合衆国交渉に当たることになり、1993年6月から米朝交渉開始された。この中で北朝鮮がすでに開発していた原子炉の平和利用への転換などが模索され、1994年6月にはカーター大統領訪朝して金日成主席会談するなど、対話機運熟していた。その最中1994年7月8日金日成主席死去し対話中断することとなるが、金日成死後の1994年12月27日アメリカ合衆国ビル・クリントン大統領北朝鮮当局との間で米朝枠組み合意結ばれた

※この「1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死」の解説は、「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の解説の一部です。
「1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死」を含む「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の記事については、「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死」の関連用語

1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの朝鮮民主主義人民共和国の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS