1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死
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「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の記事における「1990年代前半 冷戦終結と核問題、金日成の死」の解説
「米朝枠組み合意」、「拉致講義」、および「南北基本合意書」も参照 1989年以降の共産世界での民主化運動は、北朝鮮にも影響を与えた。ことに北朝鮮の友好国だったルーマニア社会主義共和国でチャウシェスク体制が崩壊し、チャウシェスク元書記長夫妻が軍により処刑された事件、中国で六四天安門事件が最終的に軍の介入により沈静化した顛末は、北朝鮮政府に軍の地位の重要性を再認識させることとなった。北朝鮮は金正日への権力継承を進めるにあたり、最高指導者が軍を掌握する体制の確立に努めた。 1990年にはペレストロイカを推進していたミハイル・ゴルバチョフの下でソ連と韓国が国交を正常化した。南北統一を悲願とする北朝鮮にとり、ソ連による韓国の国家承認は分断状態の是認と考えられ、大きな衝撃を与えた。こうした中で1990年9月から北朝鮮と韓国は再び南北対話を開始するが、この中で北朝鮮は南北統一の形として一国二制度の形もありうるとの妥協案を提示した。また、1991年には非核化交渉も開始し、1991年12月には南北共同合意書及び非核化共同宣言が採択されるに至った。同1991年には朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国は国際連合に同時加盟している。 一方、日本との関係では、1991年から国交正常化のための日朝交渉が開始されたが、拉致問題が取り沙汰されると北朝鮮が態度を硬化させた。さらに、1992年には韓国と中国が国交を正常化し、これにより北朝鮮の立場はいよいよ追いつめられたものになる。1993年までに北朝鮮は日朝交渉と南北対話を中断し、核拡散防止条約(NPT)からの脱退を宣言する。 北朝鮮の核問題に対してはアメリカ合衆国が交渉に当たることになり、1993年6月から米朝交渉が開始された。この中では北朝鮮がすでに開発していた原子炉の平和利用への転換などが模索され、1994年6月にはカーター元大統領が訪朝して金日成主席と会談するなど、対話の機運は熟していた。その最中で1994年7月8日に金日成主席が死去し、対話は中断することとなるが、金日成死後の1994年12月27日にアメリカ合衆国のビル・クリントン大統領と北朝鮮当局との間で米朝枠組み合意が結ばれた。
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