1990年代–湾岸戦争と飛行禁止区域
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「イラク空軍」の記事における「1990年代–湾岸戦争と飛行禁止区域」の解説
1990年8月、イラクは長期間に及んだイラン・イラク戦争後も、この地域における最大規模の空軍であり、当時は934機の戦闘機を保有していた。理論的には、IQAFはイランとの対立によって「強化」されるはずであったが、戦後にイラク政府が軍を完全な統制下に置くために苦心している際にIQAF指導者層や他要員の粛清が行われたことでイラク空軍を大いに縮小させた。1990年全体で最小限の訓練しか行われなかった。 次の表は、湾岸戦争開始時のイラク空軍と損失、損傷した航空機、イランへの飛行、および湾岸戦争の終わりの残存機を示している。破損した航空機の一部は、修理可能であったか、スペアパーツとして使用された可能性がある。これは、空中(23機)と地上(227機)の両方での損失の合計であり、イラク陸軍航空隊、イラク海軍およびイラク国境警備局の航空部隊に属するヘリコプターと航空機を除外している。 イラクの損失、イランへ飛行及び戦後の残存航空機航空機1990破壊損傷イランへ残存ミラージュF1EQ/BQ 88 23 6 24 35 ミラージュF1K (クウェート) 8 2 2 0 4 Su-20 18 4 2 4 8 Su-22R 10 1 0 0 9 Su-22M2 24 2 6 5 11 Su-22M3 16 7 0 9 0 Su-22UM3 25 3 1 0 21 Su-22M4 28 7 0 15 6 Su-24MK 30 5 0 24 1 Su-25K/UBK 72 31 8 7 26 MiG-21MF/bis/F-7B 236 65 46 0 115 MiG-23BN 38 17 0 4 18 MiG-23ML 39 14 1 7 17 MiG-23MF 14 2 5 0 7 MiG-23MS 15 2 4 0 9 MiG-23UM 21 8 0 1 12 MiG-25U 7 3 2 0 2 MiG-25RB 9 3 3 0 3 MiG-25PD/PDS/PU/R/RB 19 13 1 0 5 MiG-29A 37 17 4 3 13 MiG-29UB 4 0 0 1 3 Tu-16/KSR-2-11 3 3 0 0 0 Tu-22B/U 4 4 0 0 0 Xian H-6D 4 4 0 0 0 An-26 5 0 3 0 2 Il-76 19 3 1 15 0 ダッソー ファルコン 20 2 0 0 2 0 ダッソー ファルコン 50 3 0 0 3 0 ロッキード ジェットスター 6 4 0 1 1 アエロ L-39 アルバトロス 67 0 1 0 66 エンブラエル ツカノ 78 1 6 0 64 FFA AS-202 Bravo 34 5 5 0 17 Eloris trainer 12 0 0 0 12 BAC ジェット・プロヴォスト 20 5 0 0 15 BK 117 14 1 6 0 6 1991年の湾岸戦争中、イラク空軍はアメリカ、イギリスとその同盟国の軍によって壊滅させられた。大半の飛行場はひどく攻撃され、空戦ではイラクは23機の損失を出しつつも、4機を撃墜(および4機を損傷させ、1機を恐らく撃墜した)した(確認済み)。イラクが所有していた非稼働中の(6機の)Tu-22S全機が砂漠の嵐作戦の開始時の爆撃で破壊されたが、それらはすでにイラク空軍の在庫から引き出されて単にデコイとして使用されていたのであり、(運用資産からの襲撃をそらすためだけに使用された他のすべての古い航空機と同様に)イラク空軍の損失航空機の運用リストには表示されなかった。 MiG-25部隊(NATOコードネーム「フォックスバット」)は、戦争中に最初の空対空での撃墜を記録した。第84戦闘飛行隊のZuhair Dawood中尉が操縦するMIG-25 PDSが、戦争初夜に米海軍VFA-81飛行中隊のF/A-18ホーネットを1機撃墜した。2009年に米国防総省が、F/A-18パイロットのマイケル・スコット・スペイサー海軍大佐の遺体を確認したと発表し18年に及ぶ謎を解決した。当時、少佐だったスペイサーは遊牧民のベドウィン族によって墜落場所のアンバル州の辺鄙な地域の近くに埋葬されたようであった。 2回目の撃墜は、1月19日にJameel Sayhoodというパイロットによって記録された。MIG-29を操縦した彼はR-60ミサイルでイギリス空軍のトーネードGR.1Aを撃墜した。イギリス空軍のシリアル「ZA396/GE」の航空機は、D J ワディントン大尉とR J スチュワート大尉によって操縦されており、タリル空軍基地の南東51海里に墜落した。 別の事件では、イラクのMiG-25が8機の米空軍(USAF)F-15Cイーグルから逃れ、USAFのEF-111電子戦闘機に3発のミサイルを発射し、任務を中止させた。さらに別の事件では、2機のMiG-25が2機のF-15イーグルに接近し、ミサイル(F-15によって回避された)を発射した後にアメリカの戦闘機を追い越していった。さらに2機のF-15が追跡に参加し、合計10発の空対空ミサイルがMiG-25に発射されたが、いずれも命中することはなかった。 1月24日、イラク人は自身の航空攻撃能力を実証するために、アブカイクにある主要なサウジアラビアの石油精製所に対する攻撃を試みた。焼夷弾を搭載した2機のミラージュF-1戦闘機と2機のMiG-23が(戦闘機の援護として)離陸した。それらは、USAFのAWACS航空機E-3によって発見され、サウジ王立空軍の2機のF-15が迎撃のために送られた。サウジアラビアが現れたとき、イラクのMiGは反転したが、ミラージュは進み続けた。サウジのパイロットの一人、Ayedh Al-Shamrani大尉は戦闘機を巧みに操縦しミラージュの背後につき、両方の航空機を撃墜した。この出来事の後、イラク人は彼ら自身の空軍努力をこれ以上しなくなり、いつか空軍を復興させることを期待して、大半の戦闘機をイランへと送った(イランは2014年に7機のSu-25を返却した)。 湾岸戦争中に大半のイラク人パイロットと航空機(フランスとソビエト原産)は、他の国が避難所を提供しないので、爆撃作戦を逃れるためにイランへと逃走した。イラン人は戦後これらの航空機を押収し2014年に7機のSu-25を返却したが、残りはイラン・イラク戦争の賠償として主張しイラン空軍に任せていた。このため、サダム・フセインは2003年のイラク自由作戦の直前に空軍の残りをイランに送らず、代わりにそれらを砂に埋めることを選んだ。イランと地域のパワーバランスに気を取られているサダム・フセインは、「イラン人は以前よりもさらに強く、彼らは今や私たちの空軍を持っている」と述べたと報じられている。 これらには、ミラージュF1s EQ1/2/4/5/6、Su-20およびSu-22M2/3/4、Su-24MK、Su-25K/UBK、MiG-23ML、MiG-29A/UB(製品9.12B)及び一機のみのAEW-AWACSプロトタイプIl-76「ADNAN 1」を含む多数のIl-76が含まれている。また、砂漠の嵐作戦の前に19機のイラクMig-21とMiG-23が整備のためにユーゴスラビアに送られたが、国際的な制裁により返却されなかった。2009年、イラク政府は戦闘機の返却を一時的に求めたが、それらは解体されており、修理して帰還するには費用がかかるとされている。
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