1990年代―2ちゃんねる開設
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「西村博之」の記事における「1990年代―2ちゃんねる開設」の解説
詳細は「あめぞう」および「2ちゃんねる」を参照 1998年1月(2月6日説もある)、中大在学中にウェブサイト「Hirox's room」を開設。3月には大学の友人と合資会社東京アクセスを設立した。6月6日にサイト名を「Hirox's room」から「実録!交通違反をもみ消して罰金を払わない方法」(別名:「交通違反の揉み消し方」)に変更。 翌1999年5月30日、米国留学中に「あめぞう掲示板」の避難所として匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設。7月22日、2ch.netを取得。 ひろゆきは「2ちゃんねる」が成功した理由について次のように語っている。 ──「2ちゃんねる」は、どういう理由でここまで成長したのでしょうか?西村 情報ニーズがあるからじゃないですか。(中略)なにか面白い事件が起こったときに、その面白い事件が起こったよって伝える場所と、その情報が集まる場所というのがなかったんですよ、純粋に。で、それができはじめたのが、1999年の春ごろだと思うんですよね。──「あめぞう」とかのインターネット掲示板だね。西村 うん。ある意味。──ここまで社会的に大きな存在になるっていうのは考えてた?西村 ある程度の大きさになるとは思ってたんですけど、こんなに早くなるとは思わなかったですね。もう少しかかると思ってたんで。──最初っから、そう思ってたんだ。西村 最初からです。確信犯です。あまり言いたくないけど(笑)。 — 井上トシユキと神宮前.org『2ちゃんねる宣言 挑発するメディア』(文藝春秋, 2001年) - 「ひろゆき@管理人ってどうよ?」pp.140-141 1999年、「あめぞう」という掲示板サイトをヒントに、僕は「2ちゃんねる」を開設した。匿名で書き込める掲示板には、たくさんのユーザーが集まり、最盛期には1000万ユーザーを超えた。ただ、当時の法律には、ネット管理人にとって不利な条件が揃っていた。たまたま僕だけが続けた。僕は掲示板というオープンな場を提供したにすぎない。もし、公園で通り魔事件が起きたとして、公園を造園した人や管理している人が捕まるだろうか。殺人予告がハガキで送られてきたとして、ハガキを作った人や郵便配達の人が逮捕されるだろうか。悪いのは事件を起こしたり、犯行予告を書き込んだ犯人だ。ネット管理人もそれと同じ感覚だった。 だから僕は、何か事件が起きたら、その都度、ルールを作ることを提案していた。ユーザーたちが議論して、意見を出し合って、集合知に落ち着くだけだと思っていた。しかし、当時の裁判では理解されなかった。 2ちゃんねるが成功した理由は、「匿名で自由に書き込みたい」という欲望があったからだ。ネーミングや機能が優れていたからではない。「2ちゃんねる的な場所」は、ないと困る人がいる。「匿名で何かを吐き出す場所」は、絶対に未来永劫、なくなることはない。 — ひろゆき『1%の努力』(ダイヤモンド社, 2020年) - エピソード3 「なくなったら困るもの──『ニーズと価値』の話」より抜粋 ――あめぞうも含めて、ほかにも掲示板はあったわけですが、どうして2ちゃんねるだけが存続できたのでしょう。ひろゆき:データが消えない仕組みをつくったっていうのがひとつ。あとはみんな辞めちゃったけど、僕は辞めないで続けたっていう。始めたのが1999年。インターネットとかIT起業って儲かるよねってなったのって、それから結構経ってからなんですよ。そのころはまだ、ネットは金にならないと思われていた。面倒くさいことを続けても、別に何の見返りもないし、忙しくなるとやめるっていう方が至極当然ですよね。 ――ひろゆきさんは、なぜやめなかったのですか。 ひろゆき:暇だったからじゃないですか。働いてなかったから、何かトラブルがあってもすぐに対応できた。当時のサーバーって割と脆弱で、何日かに1回落ちるとか当たり前。そういう時に働いている人だとなかなか対応できないですけど、僕はある程度時間があって、ダラダラした生き方をしてたので。
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