1981年 - 1985年
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「カジャグーグー」の記事における「1981年 - 1985年」の解説
1981年にリマールのガールフレンドがデュラン・デュランのサイモン・ル・ボンと知り合いで、その関係から新たなバンド・プロデュースをしたがっていたニック・ローズを紹介され、ニック・ローズが彼らをEMI ロンドンに紹介する形でメジャーデビューを果たす。 1982年デビューに当たってシングルを選曲する際に、プロデューサーを務めたニック・ローズとデュラン・デュランのアルバムのプロデュースをしたコリン・サーストンが共に一番気に入っていた「Shy Shy」を若干、歌い方を変え、タイトルも「Too Shy」(邦題「君はTOO SHY」)として発表、同様に「Ooh To Be A」も「Ooh To Be Ah」と変更して2ndシングルとして準備した。 1982年12月、1stシングル「君はTOO SHY」を発表、翌年1月にはUKチャート1位になり、「デビュー曲でNo.1」の快挙をはたす(その他、ヨーロッパ7か国でも1位となる。米国では5位)。 同年、4月には2ndシングル「Ooh To Be Ah」と、1stアルバム『君はTOO SHY (White Feathers)』(プロデューサーはニック・ローズとコリン・サーストン)を発表、シングルはチャート7位まで上がる。6月には3rdシングル「ハング・オン・ナウ」を発表、チャート13位まで上がる。その頃、アメリカではイギリスより遅れて発表された「君はTOO SHY」がUSビルボード誌で5位まで上がり、それに気を良くしたリマールはミキサーのティム・パーマーと共に「ハング・オン・ナウ」のリミックス盤をアメリカ版シングル(米国78位)として発表した。 同時期に行っていたイギリスツアーも好評で順調に活動している様に思えたが、ツアー終了後の7月に表向きは「音楽の方向性の違い」を理由にリマールが脱退する(実情は「音楽の方向性の違い」ではなく、リマールが「君はTOO SHY」や他の曲の作詞・作曲に関するギャランティの配当を50%という法外な割合をバンドに要求し、均等配当を考えていたニック達やマネージャーのポール・ライアンを困惑させたことが原因。ジェズはリマールの要求にある程度理解を示したものの、マネージャーを含んだ他の4人は否定的だったことから、リマールと彼らの仲に溝ができ、クビにされた)。 1983年8月、4人に戻ったカジャグーグーは、ニューヨークに行ったことをモチーフに作った新曲「ビッグ・アップル」を発表、前作と同じくコリン・サーストンをプロデューサーに迎え、前シングルを上回るチャート8位まで上がる(このC/W「Monochromatic」ではニックの声で歌われているが、曲の頭と終わりのライブMCを良く聴くとリマールの声になっている、アール・ヌーヴォー時代の曲)。 ソロになったリマールは「ハング・オン・ナウ」で手を組んだティム・パーマーと、ファッションのディー・ハリスと共に12月に1stシングル「オンリー・フォー・ラヴ」を発表する。リマールはこの翌年1月に東京音楽祭に参加、銀賞を受賞する。ここに審査員で来ていたジョルジオ・モロダーと出会い、才能を見出される。 カジャグーグーは1984年3月に「ライオンズ・マウス」(英国25位)を発表、ニックはこの曲からギターとベースを兼用した楽器チャップマン・スティックを使い始める。同年5月には2ndアルバム『アイランズ』と6枚目のシングル「バック・オン・ミー」(英国47位)を同時に発表する。ニックはこの頃にファッションのマリガンと組んでIm-Mac Logicを結成し、チャップマン・スティックで弾いた「Bolero」の12インチ・シングルを発表した。 その後、アルバムの発表を期にワールドツアーに出て、7月と9月に2度来日し、その9月には来日記念盤として日本用に「パワー・トゥ・フォーギヴ」をシングル・カットしている。一方、リマールの方は5月に2ndシングル「TOO MUCH トラブル」を発表、9月には1stアルバム『ドント・サポーズ』を発表した。 カジャグーグーは日本のツアー後、「バック・オン・ミー」のリミックス盤をアメリカ用に発表、当初はミニ・アルバムとして発表する予定を急遽アルバムに入れ直し、タイトルも『アイランズ』から『Extra Play』に変更、過去のイメージを一新しようとバンド名もカジャ(Kaja)と短く改名した(アメリカでは後で同名のミニアルバムも発売された)。 改名が功を奏したのか「バック・オン・ミー」の12インチ・シングル(Flipped Disc Mix)は、1985年4月の2週間、ビルボード・ダンスチャートで2位まで上がり、「君はTOO SHY」以来の久々のヒットとなった(当時ブレイクダンスブームで、新宿や六本木のディスコでは良く使われていた)。 同じころ、リマールは東京音楽祭で知り合ったジョルジオ・モロダーから映画『ネバーエンディング・ストーリー』のテーマ曲を歌う依頼が入り、その申し入れを受ける形で3rdシングルとして「ネバーエンディング・ストーリーのテーマ」を発表、世界18か国で1位になり「君はTOO SHY」を上回る大ヒットとなった。また、ドイツ語圏を中心に4枚目のシングル「Tar Beach」のリミックス盤を発表、こちらも急遽予定していたミニ・アルバムを変更して、1stアルバム『ドント・サポーズ』に2枚のシングルを入れ直して発表した。 1985年7月頃、カジャは3rdアルバムのレコーディング中にドラムスのジェズが脱退、アルバム自身は8割方完成していたが、急遽サポートドラマーにデイヴ・マタックスを迎えて完成にこぎつけ、9月にアルバム『カジャ3 (Crazy Peoples Right To Speak)』と、シングル「涙の傷あと」(英国63位)を発表する(このシングルは当初、映画の挿入歌になる予定だったが、ボツになったという。これはアメリカで「カジャ」と改名した後ヒットした余波は、ヨーロッパではそれ程でもなく、「カジャグーグー」の知名度と比べると見劣りすることで、改名が逆効果となった。またジェズの脱退理由は公式には発表されていないが、過去のリマールの問題が少なからず影響し、バンドの先行きを懸念したことが本当の理由らしい[要出典])。プライベートの問題でバンドへの貢献が疎かになり解雇された。その後、アルバム未収録の「Hurricane」と「Whatever You Want」の2曲を加えた「Shouldn't Do That」のダブル・シングルをイギリスで発表したが、プロモート上の問題で「Shouldn't Do That」発表を最後に解散が決まり、年末に解散、メンバーは別々に新たな道を探すべく、ソロ活動を始める。 リマールの方は「ネバーエンディング・ストーリーのテーマ」をヒットさせた後に、ニューヨークのミキサー、ジェリー・ビーンと『Compromise』(未発表)を製作、その後ジョルジオ・モロダーと2ndアルバム作りに取り掛かり、1986年にシングル「瞳ときめいて (Love In Your Eyes)」(当時の「三菱・デリカ」のCMソング)を発表、同年5月に2ndアルバム『カラー・オール・マイ・デイズ』と、ソロ6枚目のシングル「Inside To Outside」を発表する。 そんな頃、EMIレコードの関係から本田美奈子のアルバム『CANCEL』への作曲の依頼がカジャ解散後のニックとリマールに入り、ニックが「Lovesong For Somebody」を、リマールが「24時間の反抗」を提供している。その後、リマールも1987年にレコード会社との契約が切れて、しばらく活動休止になる。
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