1981年・1985年とは? わかりやすく解説

1981年 - 1985年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:15 UTC 版)

カジャグーグー」の記事における「1981年 - 1985年」の解説

1981年リマールガールフレンドデュラン・デュランサイモン・ル・ボン知り合いで、その関係から新たなバンド・プロデュースをしたがっていたニック・ローズ紹介されニック・ローズが彼らをEMI ロンドン紹介する形でメジャーデビューを果たす。 1982年デビュー当たってシングル選曲する際に、プロデューサー務めたニック・ローズデュラン・デュランアルバムプロデュースをしたコリン・サーストンが共に一番気に入っていた「Shy Shy」を若干歌い方を変えタイトルも「Too Shy」(邦題君はTOO SHY」)として発表同様に「Ooh To Be A」も「Ooh To Be Ah」と変更して2ndシングルとして準備した1982年12月1stシングル君はTOO SHY」を発表翌年1月にはUKチャート1位になり、「デビュー曲No.1」の快挙をはたす(その他、ヨーロッパ7か国でも1位となる。米国では5位)。 同年4月には2ndシングル「Ooh To Be Ah」と、1stアルバム君はTOO SHY (White Feathers)』(プロデューサーニック・ローズコリン・サーストン)を発表シングルチャート7位まで上がる6月には3rdシングル「ハング・オン・ナウ」を発表チャート13位まで上がるその頃アメリカではイギリスより遅れて発表された「君はTOO SHY」がUSビルボード誌で5位まで上がり、それに気を良くしたリマールミキサーティム・パーマーと共に「ハング・オン・ナウ」のリミックス盤アメリカ版シングル米国78位)として発表した同時期に行っていたイギリスツアー好評順調に活動している様に思えたが、ツアー終了後7月表向きは「音楽方向性違い」を理由リマール脱退する実情は「音楽方向性違いではなくリマールが「君はTOO SHY」や他の曲の作詞・作曲に関するギャランティ配当50%という法外な割合バンド要求し均等配当考えていたニック達やマネージャーポール・ライアン困惑させたことが原因。ジェズはリマール要求ある程度理解示したものの、マネージャー含んだ他の4人は否定的だったことから、リマールと彼らの仲に溝ができ、クビにされた)。 1983年8月、4人に戻ったカジャグーグーは、ニューヨーク行ったことをモチーフ作った新曲ビッグ・アップル」を発表前作同じくコリン・サーストンプロデューサー迎え、前シングル上回るチャート8位まで上がる(このC/W「Monochromatic」ではニックの声で歌われているが、曲の頭と終わりライブMC良く聴くリマールの声になっているアール・ヌーヴォー時代の曲)。 ソロになったリマールは「ハング・オン・ナウ」で手を組んだティム・パーマーと、ファッションのディー・ハリスと共に12月1stシングル「オンリー・フォー・ラヴ」を発表するリマールはこの翌年1月東京音楽祭参加銀賞受賞する。ここに審査員来ていたジョルジオ・モロダー出会い才能見出されるカジャグーグー1984年3月に「ライオンズ・マウス」(英国25位)を発表ニックはこの曲からギターベース兼用した楽器チャップマン・スティック使い始める。同年5月には2ndアルバムアイランズ』と6目のシングル「バック・オン・ミー」(英国47位)を同時に発表するニックこの頃ファッションマリガン組んでIm-Mac Logic結成しチャップマン・スティック弾いたBolero」の12インチ・シングル発表したその後アルバムの発表期にワールドツアー出て7月9月2度来日し、その9月には来日記念盤として日本用に「パワー・トゥ・フォーギヴ」をシングル・カットしている。一方リマールの方は5月2ndシングルTOO MUCH トラブル」を発表9月には1stアルバム『ドント・サポーズ』を発表したカジャグーグー日本ツアー後、「バック・オン・ミー」のリミックス盤アメリカ用に発表当初ミニ・アルバムとして発表する予定急遽アルバム入れ直しタイトルも『アイランズ』から『Extra Play』に変更過去イメージ一新しようバンド名もカジャKaja)と短く改名したアメリカでは後で同名ミニアルバム発売された)。 改名功を奏したのか「バック・オン・ミー」の12インチ・シングル(Flipped Disc Mix)は、1985年4月2週間、ビルボード・ダンスチャートで2位まで上がり、「君はTOO SHY以来久々ヒットとなった当時ブレイクダンスブームで、新宿六本木ディスコでは良く使われていた)。 同じころ、リマール東京音楽祭知り合ったジョルジオ・モロダーから映画ネバーエンディング・ストーリー』のテーマ曲を歌う依頼入り、その申し入れを受ける形で3rdシングルとして「ネバーエンディング・ストーリーテーマ」を発表世界18か国で1位になり「君はTOO SHY」を上回る大ヒットとなったまた、ドイツ語圏を中心に4目のシングルTar Beach」のリミックス盤発表、こちらも急遽予定していたミニ・アルバム変更して1stアルバム『ドント・サポーズ』に2枚シングル入れ直して発表した1985年7月頃、カジャ3rdアルバムレコーディング中にドラムスのジェズが脱退アルバム自身は8割方完成していたが、急遽サポートドラマーにデイヴ・マタックス迎えて完成こぎつけ9月アルバムカジャ3 (Crazy Peoples Right To Speak)』と、シングル「涙の傷あと」(英国63位)を発表する(このシングル当初映画挿入歌になる予定だったが、ボツになったという。これはアメリカでカジャ」と改名したヒットした余波は、ヨーロッパでそれ程でもなく、「カジャグーグー」の知名度比べる見劣りすることで、改名逆効果となった。またジェズの脱退理由は公式には発表されていないが、過去リマール問題少なからず影響しバンド先行き懸念したことが本当理由らしい[要出典])。プライベート問題バンドへの貢献疎かになり解雇された。その後アルバム未収録の「Hurricane」と「Whatever You Want」の2曲を加えたShouldn't Do That」のダブル・シングルをイギリス発表したが、プロモート上の問題で「Shouldn't Do That」発表最後に解散決まり年末解散メンバー別々に新たな道を探すべく、ソロ活動始める。 リマールの方は「ネバーエンディング・ストーリーテーマ」をヒットさせた後に、ニューヨークミキサージェリー・ビーンと『Compromise』(未発表)を製作、その後ジョルジオ・モロダー2ndアルバム作り取り掛かり1986年シングル「瞳ときめいて (Love In Your Eyes)」(当時の「三菱・デリカ」のCMソング)を発表同年5月2ndアルバム『カラー・オール・マイ・デイズ』と、ソロ6目のシングルInside To Outside」を発表する。 そんな頃、EMIレコードの関係から本田美奈子アルバムCANCEL』への作曲依頼カジャ解散後ニックリマール入りニックが「Lovesong For Somebody」を、リマールが「24時間反抗」を提供している。その後リマール1987年レコード会社との契約切れて、しばらく活動休止になる。

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