1952年の橋
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砂川市と新十津川町の間には橋が存在せず(当時は石狩川橋もしくは月形橋しかこの辺りには無かったが、距離が相当離れていた)、渡船に頼るしかなかった。その渡船が1946年に事故を起こし、周辺町村を交えて石狩川に橋を架けるように国へ要望が出された。しかし、1949年に要望が通り橋を架けることとはなったが、どこに橋を架けるかで住民が対立、現在の位置に決まり着工したのは1950年8月12日のことであった。 1952年8月20日開通、長さ306.0m、幅6.0mのワーレントラス橋であった。
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1952年の橋
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交通量の増加により木橋の損傷が激しくなったため、橋長117 m、幅員5 mの鉄桁橋に架け替えられた。1958年(昭和33年)に狩野川台風による河川増水に遭っている。
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1952年の橋
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田間宮村は1954年(昭和29年)に周辺町村と合併をすることとなり、その記念事業として1952年(昭和27年)に約200メートル下流側の位置に130万円の工費を掛けて木製の冠水橋である糠田冠水橋が新河道上に架けられた。橋脚は鉄製で付近の旧久下橋や旧大芦橋に似た構造となっていた。橋長51.6メートル、幅員3.3メートルで3トンの重量制限が実施されていた。道幅が狭いことから交互通行であった。開通当時は村道だったが後に県道に編入されている。1965年9月17日に台風24号による洪水で流失した。県は472万円の工事費を掛けて1966年(昭和41年)3月18日開通予定で復旧工事が進められた。橋は通行止めになりその間、仮橋が架けられた。この冠水橋は現在の永久橋に架け替えの際に廃止となったが、取り付け道路は農道として現存する。
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1952年の橋
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前述の木製の橋とは別に現在の国道6号上に近代的な橋をかける計画は早くからあった。1935年(昭和10年)頃、千住大橋、六郷橋(旧橋)などの橋梁設計に携わった増田淳によって新橋に関する計算書が作成されている。実際の工事は、東京府より1939年(昭和14年)2月から行われ、戦況悪化により総工程の70パーセントを残して1943年(昭和18年)10月頃に中断された。 戦後、1950年に工事が再開、、1952年(昭和27年)7月に完工、7月30日に永久橋が開通した。これが現在の四ツ木橋である。車道の舗装はトペカ舗装(細粒度アスファルト混合物舗装)、歩道はモルタル舗装である。開通式は三世代家族による渡り初めや地元住民による余興が行なわれた。実現はしなかったが、東向島広小路止まりだった都電もこの橋を渡って路線延長される計画が存在した。 開通時は旧橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼んでいた。 その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として1973年(昭和48年)4月5日、新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通り沿いに架橋された。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、一方1952年(昭和27年)製の新四ツ木橋の名称が「四ツ木橋」になった。なお新四ツ木橋は建設中は「新々四ツ木橋」もしくは「第二四ツ木橋」と呼ばれていた。 詳細は「新四ツ木橋」を参照
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