1952年の出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:16 UTC 版)
「ベンガル語国語化運動」の記事における「1952年の出来事」の解説
ジンナーの後継者、パキスタン総督ハージャー・ナジームッディーンが1952年1月27日の演説において「ウルドゥー語のみ」政策を断固として擁護したことで、ウルドゥー語・ベンガル語論争が再燃した。1月31日、マウラナ・バシャニ(英語版)が議長を務めたダッカ大学のBar Libraryホールでの会合においてショルボドリオ・ケンドリオ・ラシュトロバシャ・コルミ・ポリショド(英語版)(超党派中央言語活動委員会)が設立された。ベンガル語をアラビア文字で書くという中央政府の提案はこの会合で強硬に反対された。委員会は2月21日にストライキや大規模集会を含む総力戦の抗議運動を呼び掛けた。デモを防ごうとして、政府はダッカに不法な集会を制限する刑事訴訟法第144条を発動し、これによっていかなる集会も禁止された。
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