1952年の合意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 16:50 UTC 版)
戦後、アイルランドは共通旅行区域に基づく自由な移動を保証する従前の協定を再開したが、イギリスは両国の「類似の移民政策」の合意を待って、従前の協定の再開に同意しなかった。その結果、イギリスは1952年まで、アイルランド島とグレートブリテン島の間で、北アイルランドのユニオニストが憤慨する中、入国管理を維持し続けた。 当時、類似の移民政策についての合意はなかったが、アイルランドの司法大臣が2つの島の間の入国管理の解除を「イギリス自身の問題」であると言及した1年後、イギリスは初めて立法府において共通旅行区域について言及した。合意の内容は、両国の入国管理法にもとづき、外国人はアイルランドへの旅行を希望する場合はイギリスへの入国を拒否され、イギリスへ旅行を希望する場合はアイルランドへの入国を拒否されるというものであった。 共通旅行区域を維持することは、アイルランドがイギリスの入国管理政策の変更を余儀なくされることを意味した。1962年にイギリスとイギリス連邦(英連邦)で入国管理を行う「イギリス連邦移民法(Commonwealth Immigrants Act 1962)」がイギリスで制定されたときに、アイルランドも「外国人法(Aliens Order 1962)」により、イギリス国内で出生した者(イギリス市民)を除き、入国審査を免除されていたイギリス臣民(現・イギリス海外領土市民/British subject)の資格を持つ移民に対して入国管理を行うようになった。アイルランドにおける規制に含まれる範囲は、イギリスで生まれたイギリス人(イギリス市民)だけが出入国管理から除外され、イギリス外で生まれた、イギリス人の家系でイギリス籍を持つ者やイギリスの植民地で生まれた者にまで出入国管理が課されたため、結果としてイギリスの法律よりはるかに厳しい入国条件となった。イギリスとアイルランドのイギリス市民の定義の不一致は、1999年まで解決されなかった。
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