115年目の終息宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:54 UTC 版)
「地方病 (日本住血吸虫症)」の記事における「115年目の終息宣言」の解説
甲府盆地では、1978年(昭和53年)に韮崎市内で発生した1名の急性日本住血吸虫症感染の確認を最後に、これ以降の新たな感染者の発生は確認されなくなった。ミヤイリガイも撲滅こそされていないものの、セルカリアに感染・寄生された個体は同時期以降には発見されなくなり、ヒト以外の哺乳動物の感染も1983年(昭和58年)のノネズミでの感染確認を最後に発見されなくなった。 1985年(昭和60年)には、虫卵抗原に対する抗体陽性者(皮内反応検査)の平均年齢が60.6歳に達するなど、保卵者数の低下および抗体陽性者の年齢構成の高齢化から、甲府盆地における日本住血吸虫症(地方病)の流行は、1980年代前半頃に終息したものと今日では考えられている。その後の1990年(平成2年)から3年間に及ぶ、甲府盆地の小中高生児童生徒4,249名を対象にした ELISA (Enzyme-Linked Immuno Sorbent Assay) 検査法による集団検診でも、感染者は一人もおらず全員陰性であった。 こうした経緯を経て、山梨県知事の諮問機関である山梨地方病撲滅対策促進委員会(刑部源太郎会長)は、「新たな感染による地方病患者が1978年以降発生していない」こと、「感染したミヤイリガイが1977年以降発見確認されていない」ことなどを根拠に、1995年(平成7年)11月15日、「山梨地方病の流行は終息し安全である」旨の中間報告書を同県知事に提出し、翌年2月13日の山梨県議会において、「ミヤイリガイは依然生息するものの、再流行の原因となる可能性はほとんどない」、と答申・議決され、当時の山梨県知事天野建は地方病終息宣言を行った。 宣言 先般、山梨県地方病撲滅対策促進委員会から「本県における地方病は、現時点では既に流行は終息しており安全と考えられる。」との答申をいただいたことを受け、 ここに本県における地方病(日本住血吸虫病)の流行が終息したことを宣言いたします。 — 平成八年二月十九日 山梨県知事 天野 建 1881年(明治14年)8月27日の旧春日居村からの嘆願に始まった地方病問題は、1996年(平成8年)2月19日、実に115年目にして終息を迎えた。 ただし、これは日本住血吸虫の撲滅であって、中間宿主であるミヤイリガイが山梨県内で完全に撲滅されたわけではない。可能性は低いものの、中間宿主であるミヤイリガイが存在する限り起こり得る、輸入ペットや外国人保卵者など輸入感染による再流行(再興感染症)の危険性も指摘されている。山梨県では2010年現在もミヤイリガイの生息調査や監視活動が、住民や行政から受託した民間企業などによって定期的に行われている。さらには小中高生を対象とした地方病の集団検診も引き続き行われている。また、終息宣言の1996年からは、山梨県衛生公害研究所により、甲府盆地西部に残ったミヤイリガイ生息地において GPS による定点観測が行われ、GISソフトを使用したリスクマップの作成や詳細な生息地データの作成調査が継続的に行われている。また、ミヤイリガイは千葉県小櫃川流域でも生息が確認されており、1986年(昭和61年)の千葉大学医学部による実態調査によって同流域の一部地域でかつて日本住血吸虫症が流行していたことが確認された。 なお、2014年現在も日本国内の複数の大学や研究施設などでミヤイリガイは産地別に飼育されており、日本国内の自然界では撲滅された日本住血吸虫の本体も、厳重な管理の下、ミヤイリガイと終宿主役となる哺乳実験動物と共に飼育され、人為的に生活環が再現継続され累代飼育されている。これは万一の再流行に備え、前述した皮内反応診断に必要な抗原を製造するために、日本住血吸虫の本体が不可欠だからである。 こうして、古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は多くの医師・研究者の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、世代を超えた多くの人々の努力により日本国内での日本住血吸虫症は制圧・撲滅された。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されていない。生物学、遺伝学、地質学、気象学、地理学など、あらゆる観点からの研究が行われているが、依然として大きな謎のままである。
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