長谷川一夫の時代
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『日本の映画人 - 日本映画の創造者たち』では、1935年(昭和10年)6月27日に公開された林長二郎主演作『雪之丞変化 第一篇』(監督衣笠貞之助、撮影杉山公平)を「技師一本目作品」としており、日本映画データベースでも「藤林甲」名義の最古の作品に位置づけている。この時期に手がけた他の作品については、現状のデータベース等では明らかにはされていない。林長二郎とは、のちの長谷川一夫(1908年 - 1984年、1938年改名)であり、長谷川に対する照明技師としての仕事は、戦後の新東宝初期までつづいた。 1937年(昭和12年)11月、林長二郎(長谷川一夫)が松竹キネマを退社、東宝映画(現在の東宝)に移籍する際、藤林も行動をともにしている。藤林との同時移籍は、林の東宝への移籍の条件であったとされる。同月に同社京都撮影所(かつてのゼーオースタヂオ、現存せず)で準備された林の移籍第1作『源九郎義経』(監督渡辺邦男)は林への傷害事件が起きて流れ、林の移籍後および改名後の最初の作品は同社東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で製作された『藤十郎の恋』(監督山本嘉次郎、撮影三浦光雄)であり、同作は翌1938年(昭和13年)5月1日に公開されている。同作への藤林のクレジットは、記録には残されていないが、熊谷秀夫は同作はもちろん、一連の長谷川主演作品を手がけたと述べている。記録の上では、移籍後の藤林の名が初めて現れる作品は、1939年(昭和14年)1月11日に公開された長谷川の主演作『浪人吹雪』(監督近藤勝彦、撮影伊藤武夫)である。この時代に同社の少女スターだった高峰秀子の回想によれば、高峰からみれば長谷川は「美男子とはほど遠い人」であるのに、藤林が設計した照明を当てると「もの凄く綺麗」であり、「オジサンがこんなに変わるのか」と感じ、「藤やんなくては長谷川さんの人気は、あれほどには上らなかったのではないでしょうか」という。「藤やん」は藤林の愛称である。長谷川とは公私ともに親しくしており、藤林が結婚した際の仲人を務めたのは、長谷川夫妻であった。「長さん」こと石井長四郎(1918年 - 1983年)は当時の藤林のライヴァルであったといい、高峰によれば「藤やんは温和そのもの、長さんは常に戦闘的」な性格であり、「藤やんのライティングは、あくまで美しく、かつ繊細、長さんのライティングはあくまでシャープで意欲的」であったという。 1940年(昭和15年)4月3日に公開された長谷川の主演作『蛇姫様』(監督衣笠貞之助)は、撮影技師・三村明(1901年 - 1985年)と組んだ作品であり、戦前の代表作とされる。同社東京撮影所が中華電影公司と提携し、長谷川が李香蘭(のちの山口淑子、1920年 - 2014年)と共演した『支那の夜』(監督伏水修、前篇・同年6月5日公開、後篇・同15日公開)、同じく華北電影公司と提携し、長谷川が李香蘭と共演した『熱砂の誓ひ』(監督渡辺邦男、前篇・同年12月25日公開、後篇・同28日公開)にも参加し、前者では三村明、後者では友成達雄(1900年 - 没年不詳)と組んだ。1941年(昭和16年)の同社の正月映画のために、森岩雄がマキノ正博を呼び、長谷川を主演、山田五十鈴を相手役に急遽製作することになったのが『昨日消えた男』であった。撮影期間は撮影技師に伊藤武夫、照明技師に藤林、照明応援に西川鶴三が加わるが、マキノは藤林を「この人はマキノプロダクション以来の映画同級生である」と言い、「応援の西川鶴三も、同級生だ」と言う。マキノは「長谷川一夫の顔の傷を出来るだけまともに見せないコンテ」を書き、スタッフ・キャストの協力を得て、9日間で同作を完成、脇で演じた川田義雄は「藤林君と西川君のライトのお蔭で、とても傷跡のある人とも見えませんでした」と評す。同作は同年1月9日に公開され、大ヒットを記録した。 やがて同年末、日本は第二次世界大戦に突入していくが、藤林は、戦時中も長谷川の主演作に関わり続け、1945年(昭和20年)6月28日に公開された長谷川の主演作『三十三間堂通し矢物語』(監督成瀬巳喜男、撮影鈴木博)を最後に、同年8月15日の終戦を迎えた。
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