長谷川一夫による解説
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主役の長谷川、監督の犬塚、キャメラマンの円谷は、本作で「新人三人組」と呼ばれた。「夢の場」などでは、特殊技術に凝っていた円谷は長谷川に「ここに人がいるような顔をして切ってくれ」と指示して、何もない空間を切らせてタイムを計算し、次に切られる人物をはめ込んでいった。当時キャメラは手廻し式で、当時はすばらしく新しい試みだったといい、そういうことを最初に教えてくれ、そして自分も覚えていったのが円谷だったという。 本作のロケは宇治から始まった。大・小道具の係は皆、「衣笠映画聯盟」のシンボルマークであるフクロウを描いた半纏を着、銀紙を貼った照明板の裏にもフクロウの絵がついていた。このフクロウの絵は、少人数だった衣笠映画聯盟が夜間撮影の連続だったことにちなんでいる。 長谷川は、犬塚の演技の註文(原文ママ)と円谷のキャメラの枠中での動きの註文、その枠の中で今まで勉強してきたものをどう生かすかに全力を集中したといい、また撮影スケジュールは最初から無我夢中でやるよりほかはないという強行軍で、当時の時代劇では1/10ほどチャンバラを入れなければ客が承知せず、その撮影にかなりの時間を割いたという。 また長谷川は、鴈治郎一座で習った歌舞伎の殺陣よりもリアルで動きの速い映画のチャンバラに「ビックリした」といい、芝居の間とは違う、フィルムの回転数の間があるときびしく言われ、監督のイメージにするため懸命だったと語っている。 本作は三週間で完成し、長谷川も犬塚も完成試写を見たがったが、考える間もなく『お嬢吉三』の撮影に入った。このため第一回作品の評価を受けないまま過ごさなければならないのは大変不安だったという。 松竹では新人の林長二郎を、初めての犬塚稔監督で出すより、衣笠監督の『お嬢吉三』でのデビューを考えていたが、「花の三月は『稚児の剣法』で出した方が良いのではないか」との意見に変わってきたため、大阪本社での試写が急に決まった。その日長谷川が撮影所の食堂で好物の白玉汁粉を食べていると食堂の前を犬塚が大きな荷物を重たそうに運んで通っていく。長谷川が「先生、どないしやはったんどす、えらい大きな荷物どすな」と声をかけると、「君が命をかけてとったフィルム(『稚児の剣法』)だよ」と答え、今から大阪の本社へ持って行くところだという。「それやったら私も見とうおます。一緒に連れて行っとくなはれ」「ああいいとも」と、長谷川は片方のフィルムのカバンを持って犬塚と本社へ向かった。長谷川は「現在では考えられないほど悠長な時代だった」と振り返っている。 大阪南区久左衛門町の松竹本社試写室では封切館店主や支配人が大勢待ち受けており、やがて試写が始まった。ドキドキ心臓が脈打ち、恥ずかしい気持ちでいるうちにアッという間に一時間余りが過ぎていった。試写が終わったとき、長谷川は表に飛び出してしまい、追いかけてきた犬塚から「長さん(長は長二郎の長)、成功だったよ、大変な評判だよ、『稚児の剣法』を先に封切るそうだ」と聞かされてはじめて我に返ったという。長谷川は思わず犬塚の手を握り、また犬塚も「おめでとう」と手を握り返してくれた。 犬塚は「お祝いに乾杯したい」と言い出し、下戸の長谷川も付き合うことにした。犬塚は「テヘラ亭も呼ぼう」と言い出した。この「テヘラ亭」とは円谷のことで、「一杯ひっかけるとテヘラテヘラと笑うことからついたニックネームだった。「当時は道頓堀は赤い灯、青い灯のカフェー全盛期で、三人は紅灯の巷で一夜を送ったものです」。
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