鉄道畑から政界へ
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「セルゲイ・ウィッテ」の記事における「鉄道畑から政界へ」の解説
1879年、ウィッテは首都サンクトペテルブルクでの役職を引き受け、そこで最初の妻ナジェージダと出会った。翌年、彼はウクライナの中心都市キエフに転居した。彼が1883年に発表した『鉄道運賃の原理』という著作は注目された。この論文は、社会問題について、また君主制の役割についても論じ、政府部内で好評を博した。1886年、彼はキエフに拠点を置くロシア西南鉄道(英語版)という民間会社の経営者を任され、このとき能率と収益性を大いに高めたことはよく知られている。 この頃、ウィッテは皇帝アレクサンドル3世と会っており、彼は皇帝の乗る「お召し列車」が高速運行のために2台の強力な貨物機関車を使用する皇帝周辺の慣行に対し、その危険性を警告した。そのため、皇帝の側近との間にはあつれきが生じたが、はたして1888年10月に起こったボルキ列車事故(英語版)で彼の警告は証明されたのであった。ウィッテはその後、オデッサ鉄道運輸局長職を務め、さらに同職にあったとき、運輸通信省の国営鉄道管理局長に抜擢された。 1889年、彼は「国民貯蓄とフリードリヒ・リスト」という論文を発表し、ドイツ歴史学派の経済学者フリードリヒ・リストの学説にもとづいて輸入品に正当な関税を課し、外国との競争から国内産業を守り、それを強化しなければならないと主張した。ウィッテは、ドイツにおいてリストの政策を実行したのがオットー・フォン・ビスマルクだと考えており、「ロシアはツァーリの権威に、その工業の創出、農業と人口の急速な成長、……要するにいっさいの商業上の意義を負っている」というリストの言葉を特に好んだ。同年、彼は大蔵大臣のイワン・ヴィシネグラツキー(ロシア語版)により大蔵省の鉄道事業局長にむかえられ、1891年までその職を務めた。ウィッテ登用を後援したのは皇帝アレクサンドル3世であった。ウィッテは、小規模な鉄道事業の4分の1未満が州の直接管理下にあることが非効率を招いているとし、鉄道事業の国家独占を図り、鉄道路線の拡張と鉄道事業の統制を推進した。ウィッテはまた、政治的なコネや親類縁者からの支援が幅を効かせる人事ではなく、業績や効用から人事考課をおこなう権限も獲得した。 鉄道建設に意欲的な皇帝アレクサンドルは、1882年に全長8,000キロメートルにおよぶシベリア鉄道の建設計画を決定していた。しかし、膨大な建設経費が、この計画の実現を妨げていた。この計画の目的は当初ヨーロッパ・ロシアの人口稠密状態の改善ということにあったが、やがて、清国におけるイギリスやドイツの勢力への対抗という動機が加わり、さらに19世紀末には満洲地域の清国人人口の急増に対して既有の領土を防衛するために必要だと考えられるようになっていた。 1890年、ウィッテの最初の妻、ナジェージダが死去している。1891年、ロシアでは新しい関税法が可決され、20世紀初頭まで保護貿易主義のなかでロシアの工業化が進展した。一方、この年はシベリア鉄道の工事に着手した年でもあった。ウィッテはロシアの工業化に尽力するとともに、それを担う実践的な科学・技術教育の普及のために努力した。 1892年、ウィッテは劇場で知り合った女性、マチルダ・イワノヴナ(イサコフナ)・リサネビッチに好意を寄せるようになり、ギャンブル狂いの夫と離婚して自分と結婚するよう求めた。マチルダは既婚者だったというばかりではなく改宗ユダヤ人でもあったので、2人の結婚は当時のロシア社会にあってはスキャンダルにほかならず、ウィッテは上流貴族との社交を犠牲にしなけければならなかったが、皇帝アレクサンドルは彼を守った。
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