鉄道用動力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:29 UTC 版)
鉄道車両用に使用された例も限られた事例ながら存在する。 1904年(明治37年)から1910年(明治43年)にかけ、福岡鉄工所(大阪府に所在した零細企業)によって焼玉エンジン(出力5仏馬力→7仏馬力)を搭載する「石油発動車」と称する内燃機関車が開発・製造された。日本で内燃機関を鉄道車両に用いたもっとも早い例である。 前方に蒸気機関車のボイラー類似のフードを備えてエンジンを収め、細い煙突を立てて後方の運転台から操縦するもので、車軸はチェーンまたはギヤにより駆動する構造 であった。 この機関車を使用した鉄軌道事業者は筑後軌道・祐徳軌道など筑紫平野を中心とした福岡県・佐賀県域に営業していた914 mm軌間の非電化軌道を中心に数社のみであるが、製造輌数は路線延長の長かった筑後軌道がのべ47輌も購入したこともあり、総計で60輌を超えている。 この機関車は非力で、故障も多かった。しかし、当時の非電化軌道線の動力は馬力(馬車鉄道)・人力(人車軌道)が主体で、未だ蒸気機関車すら普及していない状況であり、また法規上原則として2輌編成以上での運転ができなかったこともあり、蒸気機関車よりも安価な、「石油発動車」の登場は馬力に代わる低コストな動力化策として注目を集めたようである。 1907年前後から国産小型蒸気機関車の量産が軌道に乗り、また連結両数に関する規制が緩和され、2輌以上の連結運転ができるようになると、小出力で故障も多く取り扱いも面倒な「石油発動車」の需要は減退し、新規の製造は終了した。既存の車両についても、強力(小型でも数十馬力程度の力があった)で信頼性も高い蒸気機関車に置き換えられた例も複数見られた。 残った機関車についても1920年代中期以降、乗合自動車の普及が進んだことで営業していた軌道線自体が廃止されたため姿を消している。 最後の使用例は、羽犬塚 - 黒木間で軌道を経営していた南筑軌道で、平坦な線形にも助けられ、1914年(大正3年)の導入開始から1940年(昭和15年)6月に全線が廃止されるまで実に25年以上にわたり、この機関車を使用し続けていたことが知られている。 このほかにも、保線用モーターカーなどに使用事例がある。 現在、中岩瀬SLを走らせる会によって焼玉エンジンを使って庭園鉄道サイズの石油発動機関車が作られ、時々出張運転が行われている。
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