車両の通行側の転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 06:19 UTC 版)
車両の通行側は、20世紀初頭から第二次世界大戦前後にかけて主に左側通行から右側通行へ交通側の転換が行われたケースが各地で存在する。 カナダは1867年までイギリスの植民地であり、元々自動車は左側通行であったが、アメリカと陸続きであることから1920年代に右側通行に変更している。 オーストリアは、1938年のナチス・ドイツによる独墺併合(アンシュルス)を機に、左側通行からドイツ同様の右側通行に変更された。 ポルトガルは、1928年に左側通行から右側通行に変更された。ただし、旧ポルトガル植民地であってもモザンビークや東ティモール、マカオは左側通行である。 イギリス領ジブラルタルでは、1929年6月16日に本国同様の左側通行から隣国スペインに合わせ右側通行へ変更された。ジブラルタルの交通#道路参照。 その他、ヨーロッパ大陸ではチェコスロバキアやハンガリーが1930年から1940年代にかけて左側通行から右側通行に変更した歴史を持つ。 中国大陸では、上海などのイギリス租界や日本租界、関東州(大連)といった日本の租借地、また満州国も左側通行であったが、1949年の中華人民共和国成立後は、全土が右側通行に変更・統一されている。ただし、香港およびマカオは中国に返還された後も従来通り左側通行を維持している。 台湾・パラオ・フィリピン・朝鮮半島(韓国・北朝鮮)などは、日本に統治されていた時代は日本式の左側通行であったが、戦後に右側通行に変更している。 ミャンマーは、旧宗主国であるイギリスからの制度である左側通行を1970年に右側通行に変更した。ミャンマーの場合、国境線は右側通行の国(中国・ラオス)と左側通行の国(タイ、インド、バングラデシュ)の両方と接しているが、左側通行の国とのほうが遙かに距離が長く通行量も多いため、右側通行に変更するメリットは少ない。変更の理由は、ミャンマー政府がイギリス式を嫌ったためとも指導者が占い師による助言を受け入れたためともされている。しかし前述の通り、走行している車の大多数は右ハンドル車である。 右側通行から左側通行への転換は、ナミビアとナウル(共に1918年)、サモア(2009年)、また、日本本土復帰後6年目の沖縄県の例(後述)がある。 自動車が普及し交通インフラが整備された国や地域での左右交通区分の転換は、住民への周知徹底、信号機や道路標識の全面的変更、道路の構造変更、乗車扉を変更するためのバスの更新など、多大な費用と事故の危険が伴うため非常に稀である。それでも、近年では以下のような例がある。 1967年9月3日に、スウェーデンで自動車の通行区分が左側通行から右側通行へ転換された。これをダゲン・Hという。 日本の沖縄県は第二次世界大戦後にアメリカ軍の統治下に置かれ、左側通行から右側通行に変更されていた。1972年に日本本土に復帰した後、1978年7月30日、日本本土に合わせて再び左側通行に戻した。これを730(ななさんまる)という。 サモアは2009年9月7日、自動車の通行区分を従来の右側通行から左側通行に変更した。これは同国の自動車普及において、左側通行のオーストラリアやニュージーランドが地理的に近いため、それらの国から右ハンドルの中古車を輸入することが低コストになるということが大きな理由とされる。 日本統治時代の台湾の台南駅及び「左側通行」の道路標識。 日本統治時代の朝鮮の京城府太平通(現在のソウル特別市太平路)。日本に合わせて、かつては左側通行であった。 満州国新京の宮内府に出入りする車両。日本に合わせて、かつては左側通行であった。 復帰前の沖縄のコザ十字路。アメリカに合わせて、かつては右側通行であった。 キャンプ・フォスター内の道路。日本に合わせて、基地内であっても左側通行である。
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