記号、対象、解釈項
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 04:24 UTC 版)
「チャールズ・サンダース・パースによる記号の要素とクラス」の記事における「記号、対象、解釈項」の解説
上で概説したように、パースは、記号論の基本的な要素はぴったり3つであると考えていた。つまり、記号・対象・解釈項であり、ここでは少し詳細な肉付けをする。 記号(または 表意体 representamen)は、「表象・代表(represent)」ということのもっとも広い意味でなにかを表現する。記号は、何かについて何かを言っていて、解釈可能な何かである。記号は、必ずしも記号的、言語的、また人工的なものである必要はない。 対象とは、記号と解釈項の主題となるものである。それは議論可能なまた思考可能ななにかであり、物、出来事、関係性、品質、法則、論証など、また例えばハムレットのような虚構のものでもありうる。それらのすべては特殊なまたは部分的な対象である。もっとも正確には、対象は、部分や特殊が所属している議論領域である。たとえば、冥王星の軌道の摂動は、冥王星に関する記号であるが、究極的には冥王星にのみに限られるものではない。 解釈項(解釈的記号)とは、多少なりとも明確化された記号の意味や効果であり、ある種の形式や観念上の相違点でもある。その相違点によって、記号が真でありまやかしでないものとなる。(パースの記号理論は、最も広い意味での意味に関わるものであり、論理学的な意味合いも含んでいる。だから、辞書によって適切に明らかにされているような単語の意味だけではない)。解釈項は、対象の記号(a)、同じ対象の記号であったものとしての先行する解釈項の記号(解釈された記号)(b)の両方がある。解釈項は、解釈された結果であり、解釈的な関係が完結して、解釈過程や解釈項の産物でもある。この産物や内容自体が、ときには行為になったり、感情をかきたてたり、行動を起こしたりするものとなるのだが。以上述べたことは、記号は対象に対して解釈項で向き合っている、ということでまとめとなるだろう。 こころで理解されるためには、対象に慣れ親しんでいることにある程度は依存する。与えられた記号が何を指示しているかを理解するためには、その記号の対象、それに付随する記号や記号体系、また文脈などの経験を必要とする。付随する経験、付随する観察、付随する知識、ほぼ同じような術語について、パースも述べている。 表意体(representamen)は、パースに採用された用語(新造語ではない)であるが、彼の理論がカバーするあらゆる記号または記号的ものを包括する術語となっている。ここで問題となることは、理論上定義された「表意体」が、日常的な語である「記号」がカバーする事例と同じものをカバーするかどうかである。「表意体」の単語としては、派生的な意味が生じていることもある。パースは以下のような例をあげている。記号の作用は常に心に関係している。もしあるヒマワリが、たまたま太陽の方を向いただけだったものが、そのことによって、太陽と全く同じ方法で回るヒマワリがずっと再生産され続けられたのだとしたら、最初のヒマワリが太陽を向くことは、太陽の記号ではないだろうが、太陽の表意体 とはなりえる。パースは最終的には「表意体」という単語の使用をやめた。 パースは彼の記号学的要素、特に記号とその解釈項についていろいろな分類を行った。ここでの記号・対象・解釈項の三対の理解するにあたって、特に関連することは、記号との関係において、その対象と解釈項は直接的(記号の内にある)か、媒介的であるかどうかである。 記号、記号自身に対して常に直接的であること。すなわち同義反復の意味で、またそれ自身のうちで、またはそれ自身のところで存在することからして。たとえ、それが心に直接的でないとしても、過程無しで直接的に成し遂げられるとしても、実例によってのみ理解されるような一般的なものであるとしても、直接的とみなされるだろう。 対象 直接的対象、記号の中で示されたものとしての対象 動的対象、実在的なものとしての対象。直接的対象がもっている観念が、根底にあって、基礎づけられるような対象である。dynamoid object, dynamical object とも呼ばれる。 解釈項 直接的解釈項、印象の性質であり、その印象とは、記号から産出してくるものに適合しているのだが、なんらかの現実の反応によるものではない。解釈者や擬似的な解釈者が関与しなかったとしても、記号が保持している印象である。記号の意味と通常に呼ばれているものがこれにあたる。 動的解釈項、記号が、心や擬似的な心におよぼす(感覚とは分離した)現実の効果。例えば、感覚によって興奮するようなこと。 最終的解釈項、記号が心や擬似的な心に働きかけたときに生じる効果であり、状況が許すならば、十分に達成されうるもの。天候に関する問いかけの最終的解釈項は、問いかけの目的である。つまり、その応答は、その日の誰かの靴を選ぶという計画に影響する。ある一連の研究においては、最終的解釈項は、理想的な最終意見としての真理のようなものである。そしてそのような解釈項は、研究の都合によって不可避的に延び延びになっていたとしても、遅かれ早かれ到達されるものである。もちろん、真理自体は、あなたや私や限られた研究者集団が信じているものからは、独立なものなのだが。 直接的対象は、理論家の観点からは、実際上は動的対象である記号の一種と見なされるだろう。しかし、現象学的には、それを越える理由があるうちは認められる対象である。ある記号過程を分析(理論的にではなく批判的に)している誰かが、そうではないとみなすまでは、その対象は直接的対象であると見なされるだろう。 対象には架空のものありえるから、実在(real)よりは動的(dynamic)な対象といった表現をパースは好んだ。例えば、ハムレットは架空の存在だろうと当然思われているが、ハムレットの劇中の会話の世界では、実在の人物でもある。 直接的、動的、最終的解釈項と並べてみたときに、これが現実の記号過程の時間的継起で、それぞれ始まり、中間段階、終わりであると見なしたくなるだろう。しかし、その区別は、むしろ様式的でカテゴリー的なものである。直接的解釈項は、記号が産出する印象の性質であり、特定の可能性が関与している。動的解釈項は現実性が関与している。最終的解釈項は、意見や解釈などの現実の趨勢に影響されないある種の規範や必然性が関与している。最終的解釈項そのものは、現実的には得られないものなのだ。その代わりに、首尾よくそれと一致することもあるのだろう。パースは可謬主義者として、以下のような考えをもっていた。人は、今行ったことに対してなにか保証があるからではなく、強いられた理由、ときにはそう考えざるを得ないということによっているのだ。現実的な問題においては、時には、そのように行うことに完全な信頼をおいて振る舞わなければならないこともあるだろう。(パースが述べているところでは、実践的な問題においては、本能や感情また伝統に頼ることの方が、理論的な探求よりも良いことが多いとなる。)ともかく、真理が、真理を追求することの最終的解釈項である限りでは、真実とはなんであるか? そしていつ、どの程度に真理に到達出来るものなのか? といった問いに関する最終的解釈項に、実質的に一致しているものと信じる他はない。
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