苦楽座・桜隊での活動
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苦楽座は園井が宝塚を退団する約2カ月前の1942年7月8日に、高山徳右衛門、丸山定夫、藤原鶏太、徳川夢声によって結成された。同年12月3日から旗揚げ公演を行い、園井はここで上演された3本の芝居のうち『玄関風呂』(尾崎一雄原作)に出演。以後苦楽座公演に継続して参加した。1944年には丸の内邦楽座での本公演および関西地方への巡業で舞台版『無法松の一生』が上演され、園井は映画同様吉岡夫人役を演じた。 この巡業は12月に終了したが、このころ東京への空襲が激しさを増しており、苦楽座幹部は活動困難とみて年末もしくは年明けに解散を決定した。その後、幹部のひとりであった丸山定夫が地方慰問を目的とした新たな劇団設立を提案。園井を含む12名がこれに賛同し、団員13名、スタッフ4名の計17名をもって「苦楽座移動隊」が結成され、日本移動演劇連盟に加入した。移動隊は『獅子』公演のため、岩手県盛岡市の繋温泉で稽古合宿を行ったが、この最中に新しい劇団名をという提案があり、暫定的に「桜隊」となった。この名が正式名称となるのは、同年6月に広島へ赴いてからのことである。 以後1月末から3月にかけて、『獅子』と『太平洋の防波堤』をもって関東、次いで広島へ巡演する。関東では工場慰問が主だったが、広島では病院で傷病兵の慰問も行った。3月4日に東京へ戻ったが、同10日の東京大空襲で府下の主だった劇場は焼滅、桜隊の面々も焼け出された。日本移動演劇連盟は、もはや都市を巡演する公演形態は不可能と判断し、所属各劇団を全国各地に疎開させ、それぞれに常駐して公演を行わせることを決定。桜隊の疎開先は広島県広島市と決まった。隊長の永田靖と丸山定夫が中国以西の地域に通じていたこと、また、先に広島市で公演を行った際、多くの観客から好評を得たことが都市選定の要因だったともされる。しかし、広島は軍都として有名だったにもかかわらず、未だ目立った空襲がなく却って危険視されていた場所で、この決定は桜隊内部の動揺を誘った。同年4月に園井が中井志づに送った手紙にも、広島行きを断ろうとしたが、主張しきれなかったという内情が綴られている。 (前略)東京に最後までとどまり、先生のおそばで勉強させていただくつもりでしたのに、広島へ劇団疎開することに決まり、私も一緒にまいることになりました。「生きていくうえは、いま死んでも、悔いない生活でなくてはならない」。このごろ盛んに謳われている言葉ですが、ほんとうにいま死んでもいい生活をしている人が、幾人いるでしょうか。求め求めて、とうとう広島行きとなりました。私が、東京に残るために広島行きを断ったら、劇団を解散するとか何かとごたごたして、三好十朗先生にも、「あなたは、芝居をやめる人ではない。とにかくやりなさい。選ばれた人は、最後までやめてはいけない。苦楽座の集まりのないときでも、私と話にいらっしゃい」とすすめられ、二日ぐらい考えたあげく、永田氏に負けました。丸山さんは、黙って廊下に座って、頭を下げられました。これからは、丸山さん、永田さんに引きずられるのではなくて、私が引っぱってまいります。やわらかく、強く手綱を取っていくことにしました。(後略) — 『園井恵子・資料集 - 原爆が奪った未完の大女優』pp. 143–144 桜隊は6月22日に広島に到着。これに先立ち隊長の永田靖と多々良純が徴兵のため劇団を離れており、所属者はスタッフを含めて14名であった。以後桜隊は『獅子』『山中暦日』『日本の花』の三本をもって広島から山陰地方を巡演。その最中に丸山が肋膜炎を発症したため、後を吉本興業系の移動劇団「珊瑚座」に託し、予定より早く広島に戻った。これが桜隊最後の公演活動となり、園井は苦楽座旗揚げ公演からの全公演に参加したことになった。 広島へ戻ったのち、池田生二が空襲に遭った沼津に残した家族の安否確認のため離脱。ほか3名が先の見通しに不安を覚えて帰京。さらに劇団事務長の槙村浩吉も俳優補充のため一時帰京し、園井を含む9名が広島市堀川町99番地の事務所に残された。園井は8月2日ごろより、兵庫県神戸市の中井義雄、志づ夫妻のもとで静養。劇団の召集日前日だった5日までそこで過ごしたのち、広島に戻った。
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