苦渋の生産調整
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 20:58 UTC 版)
オイルショックからの全国的な不況に加えて、1974年(昭和49年)8月、生糸一元化輸入措置が発動され、原材料である生糸を安価で入手できなくなったことが、ちりめん不況に追い打ちをかけ、丹後ちりめん衰退の流れをつくった。この輸入措置は、生糸の価格を高額で維持し、養蚕農家を保護しようということが大義であったが、一方で製品の輸入は実質的に自由化されるという大きな政策矛盾があり、高い値段で据え置かれた国産生糸で製織せざるをえない国内織物産地に対して「0がひとつ少ない」ECやアジア諸国の安価な輸入絹織物が増加した。9月、織布5団体による全国織布危機突破大会が東京共立講堂で開催され、丹後地方からも13,500名の署名を集めて衆参両院の議長や地元選出議員、丹後地域の各市区町村議長らへ、規制の撤廃や緩和を求める陳情や請願が行われた。この陳情はその後毎年、20年以上欠かさず続けられたが、中央政府に地方の苦境が考慮されることはなかったという。長引く不況のなかで1976年(昭和51年)に韓国産の絹織物の輸入が急増すると、あおりを受けた丹後ちりめん業界では倒産や失業が相次ぎ、その数は1カ月あたり30軒にものぼった。これを食い止めるため、1977年(昭和52年)12月7日、丹後一帯で生産調整を目的として、ちりめん織機の共同廃棄「はたべらし」が行われた。1,264の織物業者で、全体の12パーセントにあたる4,827台の織機が破砕され、道端に鉄くずが積み上げられた。高額な資金をかけて購入し、家計を支えてきた織機が砕かれ捨てられる様に、織手は一生の決別を感じ号泣したという。共同廃棄に該当した事業所には、組合から一定の補償が支払われたが、その後16年間、織機の増機が制限された。 昭和五十二年 十二月 七日 丹後に つち音が ひびく。 四十九年に オイルショックが あった。 それからというもの 機は 不景気の谷へ 吸いこまれた。 こないだも 友だちの家の機が こわされていた。 外に出された機は 雨にうたれて さびる さびると 泣いた。 機がこわされた機屋さんは これから どうしたらいいのだろう。 まだ 十二月 丹後に 雪は もっと もっと ふる。 機屋の人たちの心の中に 重く 冷めたく ふる。 — 野田川町・市場小学校6年生の作文 輸入織物との競合や着物離れの影響によるちりめん不況はその後も長引き、織機の共同廃棄は1977年(昭和52年)以降、1980年(昭和55年)までの毎年と、1983年(昭和58年)、1985年(昭和60年)、1987年(昭和62年)にも行われ、破砕された織機の総数は14,838台に及んだ。
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