苦渋の修行時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 01:20 UTC 版)
「オスカー・フリート」の記事における「苦渋の修行時代」の解説
1889年にフランクフルト・アム・マインのパルメンガルテン管弦楽団のホルン奏者となり、初めて指揮も経験し、間もなくフランクフルト歌劇場に職を見つける。フランクフルトでは、3年間エンゲルベルト・フンパーディンクの内弟子ならびに助手となり、その薫陶を受けリヒャルト・ワーグナーの作品に通じるようになる。処女作(《歌曲集(Lieder)》、《吹奏楽のためのアダージョとスケルツォ(Adagio und Scherzo für Blasinstrumente)》、《「ヘンゼルとグレーテル」の主題による管弦楽のための幻想曲(Orchester-Fantasie über Themen aus „Hänsel und Gretel“)》)はこの時期に遡る。 フランクフルトを去って、短期間デュッセルドルフに赴く。この地で絵画と美術史を学び、暫く画家として腕試しをして、ゆくゆくはミュンヘンに定住するつもりであった。同地では、世紀末の文学者、フランク・ヴェーデキントやオットー・ユリウス・ビーアバウムに接触し、(《「ヘンゼルとグレーテル」の主題による幻想曲》の初演で)指揮者ヘルマン・レーヴィの支援を受けた。1895年には、ビーアバウム原作による歌劇《恍惚の姫君(Die vernarrte Prinzeß)》が完成するも、係争中のためにまったく上演されなかった。ボヘミアンであるフリートは賭博のせいで、なけなしの金を持って1896年にパリに行き、暫し彼の地で不自由して暮らした。
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