衰退の流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:32 UTC 版)
後楽園競輪の廃止は当時の競輪界に大きな打撃を与えたが、昭和40年代に入ると競艇の総売上が次第に競輪に迫る勢いを見せるようになった。1965年(昭和40年)度を見ると、競輪は競艇を含めた他の各公営競技団体の倍ほどの総売り上げを計上していたが、その後、競輪自身も売り上げを伸ばしていくものの、伸び率は鈍化していく。対して競艇は昭和40年代前半以降毎年度10%以上の伸び率を見せ、1973年(昭和48年)度頃には競輪と肩を並べた。同時期に発生した第一次オイルショックの影響により1972年度以降は伸び率も鈍化したが、1975年(昭和50年)度の年間総売上で競艇が競輪を逆転した。その後も現在に至るまで競艇が競輪の総売上を下回った年度は一度もなく、実に2倍以上もの差がついている。 また総入場人員においても、昭和40年度は競輪が約2800万人を記録し競艇に倍以上の差をつけていたが、その後競艇が差を詰めてゆき、1975年(昭和50年)度に競輪を逆転した。 競艇に逆転された原因として、競艇が施設改善や投票券の機械化を急ピッチで進めたのに対し、 当時は創世紀時代に建設された施設をそのままにしているところが多く、場内も「鉄火場風情」が漂っていたことから気軽に来場できるような場内環境ではなかった。 投票券の機械化も著しく遅れ、旧来の「穴開き式投票券」を発売している施設が大半を占めていたため発走時刻の遅れが恒常化していたなどといった問題点が一向に改善されなかった。 さらに場内の風紀浄化も著しく遅れており、場内に闊歩していたノミ屋を排除する動きは1985年2月に高知競輪場で発生した暴力団抗争事件以降本格化するが、他競技では既に着手していた。 などが挙げられる。 それでも、総売上は1980年(昭和55年)度まで競輪も対前年比増を何とか記録していたが、1981年(昭和56年)度に中央競馬を除く各公営競技が揃って前年割れを記録した。
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