衰退・断絶と復活とは? わかりやすく解説

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衰退・断絶と復活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 19:21 UTC 版)

上条上杉家」の記事における「衰退・断絶と復活」の解説

森田真一によれば上条上杉家遅くとも長禄年間には淡路守系(上条房実系)と播磨守系に分かれていたという。 戦国時代初頭の定実に至り長尾為景擁立されて房能・顕定を滅ぼし越後守護を継ぐ。しかし、定実には継嗣がおらず、伊達氏からの養子迎えることを画策する天文の乱により果たせず、そのまま断絶したまた、実の実家である上条家においては上条定憲の反長尾活動上条の乱)が知られるが、定憲の後、一名置いて上条政繁家督継いだ。 政繁は、後に関東管領継承した上杉輝虎計らいで、能登畠山氏足利氏一門で、上杉家外戚にあたる)から畠山義春養子として迎えている。政繁・義春は1586年頃に上杉家出奔し、義春は畠山氏復姓している。上条上杉家は義春の次男上杉長員継承し、後に江戸幕府旗本となった当初知行は1,490石だったと云われる。 しかし、上杉義陳時に男系血統絶え親戚高家畠山氏(義春の三男義真血統)から知義、伊予吉田藩伊達氏から義枝養子迎えた以降伊達政宗長男・秀宗の男系子孫として続いている(また、義枝嫡男である義寿は知義の娘を母に持つため、同時に義春の血も引いている)。 なお、上杉謙信実姉仙洞院生母上条上杉弾正少弼の娘であるため、旗本上杉長員米沢藩初代藩主上杉景勝は、母系上条氏血を引いていることになる。

※この「衰退・断絶と復活」の解説は、「上条上杉家」の解説の一部です。
「衰退・断絶と復活」を含む「上条上杉家」の記事については、「上条上杉家」の概要を参照ください。

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