衰退・滅亡
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ナラシンハ・デーヴァ3世の治世、1334年以降、ムハンマド・ビン・トゥグルクの失政により、トゥグルク朝から多数の地方長官が独立したが、ここから東ガンガ朝は衰退していった。 バーヌ・デーヴァ3世の治世、東ガンガ朝の領土はベンガル・スルターン朝やヴィジャヤナガル王国といった新興勢力の標的となり、さらには1358年から1359年にベンガル・スルターン朝に遠征していたフィールーズ・シャー・トゥグルク率いるトゥグルク朝の軍勢にも攻撃された。フィールーズ・シャーの軍勢は1360年にビハールからオリッサに侵入したのち、首都を占領し、多くの人々を殺害したばかりか、ジャガンナート寺院を略奪した。 その息子ナラシンハ・デーヴァ4世の治世には、バフマニー朝、マールワー・スルターン朝、ジャウンプル・スルターン朝からの遠征軍を受け、王朝は衰退したが、攻撃に耐え抜いて独立を守った。 1424年、ナラシンハ・デーヴァ4世の死後、息子のバーヌ・デーヴァ4世が即位したが、王国の実権は宰相のカピレーンドラに握られた。 1434年、宰相カピレーンドラはバーヌ・デーヴァ4世を廃して、ガジャパティ朝を樹立し、10世紀続いた東ガンガ朝はその歴史に幕を閉じた。
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衰退・滅亡
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だが、ボージャの治世末期、 チャウルキヤ朝とチェーディのカラチュリ朝の連合軍に敗れた。ボージャの死後、マールワーは両王朝によって分断されることとなった。 その後、後期チャールキヤ朝の援助によって、パラマーラ朝はマールワーの支配を回復したものの、12世紀半ばから後半にかけてチャウルキヤ朝の侵攻を再び受け、マールワー全域を奪われた。 パラマーラ朝の一族はマールワーを捨て、遠く東へと逃げた。王朝は主系と傍系マハークマーラに分かれてしまい、ボーパールとヴィディシャーの周辺地域を支配する小国となってしまった。 やがて、傍系マハークマールのヴィンディヤヴァルマンは、首都ダールをチャウルキヤ朝から奪還し、13世紀前半に主系と傍系を統合した。だが、かつての勢力を取り戻すには至らなかった。 また、13世紀初頭にデリー・スルターン朝の奴隷王朝が成立すると、1233年にシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュがウッジャインやヴィディシャーを占拠した。 1250年には再び奴隷王朝のギヤースッディーン・バルバンの侵略をうけた。さらに、同じ頃にチャウルキヤ朝やデカンのヤーダヴァ朝の侵略もうけ、チャウルキヤ朝にダールを略奪されるなど、王朝が好転することはなかった。 パラマーラ朝はその後もマールワーで細々と存続した。だが、1305年にデリー・スルターン朝のハルジー朝の攻撃を受け、ウッジャインやマーンドゥーなどの拠点を落とされ、ついにはダールも陥落し、パラマーラ朝は滅亡した。
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