概要と前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 21:15 UTC 版)
高天神城は元は今川氏の支城であったが、桶狭間の戦いから駿河侵攻にかけての今川氏の衰退・滅亡によって城主・小笠原氏興は徳川氏に付いた。遠江・駿河の国境近くにある高天神城は、徳川氏にとって遠江支配の重要拠点であった。 武田氏は駿河平定後、三河・遠江方面へ手を伸ばし始め、そのため徳川氏とは小競り合いが続いた。元亀2年(1571年)に武田信玄が2万5000といわれる大軍を率いて三河・遠江に侵攻したが、その際に高天神城を攻め同日撤退したといわれる。その翌元亀3年(1572年)の武田氏のいわゆる西上作戦における遠江侵攻において、高天神城と徳川氏の本拠浜松城とを結ぶ遠江の要所二俣城が陥落し(二俣城の戦い)、高天神城は孤立することになった。しかし、この時点ではいまだ徳川氏の拠点として高天神城は機能していた。 信玄の死後、後を継いだ武田勝頼もまた、遠江支配強化のために高天神城を狙い、武田氏と徳川氏は遠江支配の要としての高天神城を奪い合うこととなった。
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