衰退、新会派結成へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/24 14:40 UTC 版)
明治32年(1899年)には最大68人を有したが、山縣の側近平田東助が親政府派の茶話会で活動しつつ無所属団(第一次無所属)の結成、無所属団と茶話会の大半を入れた幸倶楽部派(70人)の誕生による政府与党の結成に尽力した結果、貴族院は研究会と幸倶楽部派が勢力を拡大、平田と同じく山縣の側近清浦奎吾が研究会を率いて幸倶楽部派と提携、政府与党が貴族院の大半を占めた。のみならず、山縣と部下の桂太郎が首相だった時期に勅選議員を続々と無所属団と茶話会に入会させた。こうなると、懇話会・三曜会は勅選議員からの引き抜きも出来なくなり、ますます衰退が加速する事態に陥った。 翌33年(1900年)には内紛から離脱者が相次ぎ、谷ら主流派40名は「庚子会」と名乗る。だが、研究会の台頭に対して衰退を続けたために、同年発足した第4次伊藤内閣の予算案に反対した際、谷が研究会の協力に泣いて感謝したことが伝えられるなど(山口弘達子爵の証言)、もはや庚子会は貴族院の主流から外れ、存続が危ぶまれていった。予算問題も伊藤の工作による天皇の詔書が貴族院に下されると庚子会を含む貴族院は政府との妥協を余儀なくされ、以後貴族院は目立った動きを控えた。そして、庚子会は明治34年(1901年)に三曜会の後継会派である朝日倶楽部と合併して新会派・土曜会を結成した。
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