衰退・滅亡へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 18:07 UTC 版)
文帝時代から始まった子が父を、弟が兄を殺すという皇族の内紛は後の南朝において常に続く内争の端緒となり、また宋を大いに衰退させる一因となった。孝武帝も自身の兄弟や一族を次々と殺戮した。また中央集権を図ったが失敗している。孝武帝が464年に崩御すると、長男の劉子業が跡を継いだが、性格が凶暴・残忍で戴法興・柳元景・顔師伯ら重臣を殺したため、465年に寿寂之・姜産之により殺害された。 新しい皇帝には文帝の十一男の明帝が擁立された。だがこの明帝も残忍で孝武帝の子を16人も殺害した。またこの明帝の時代には北魏からの侵略が激しくなり、山東半島から淮北までの領域を完全に奪われた。明帝は寺院の建立や無謀な遠征を連年続けて濫費を繰り返し、宋の財政は悪化した。472年に明帝が崩御すると、長男の劉昱が跡を継いだが、この時にも孝武帝の遺児12人が殺戮される悲劇が繰り返されている。このように歴代が内紛を繰り返した結果、宋は衰退した。 このような中、明帝時代に北魏との戦線で実力を築いた軍閥の蕭道成は、驍騎将軍・西陽県侯・南兗州刺史・右衛将軍・衛尉と昇進を重ねて宋の実力者となった。そして宋の末年に発生した皇族の江州刺史で桂陽王劉休範や荊州刺史沈攸之らの反乱を平定した。このように蕭道成が実力を蓄える一方で、劉昱は殺戮を好み暴政を繰り広げ、遂には蕭道成の殺害を計画したために477年に殺害された。 新しい皇帝には弟の順帝が擁立されたが、幼少の事もあり実権は蕭道成が握った。479年、順帝は蕭道成に禅譲し、蕭道成は南朝斉を開き、ここに宋は滅亡した。なお、同族相食む中で滅亡した宋であるが、順帝は禅譲後に殺される直前、「2度と王家に生まれたくない」と述べたとまで伝わる。
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