自由党から民主党へ
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1998年(平成10年)1月、小沢、加藤六月、野田毅らと共に自由党を結成し、副党首に就任。同年2月、高田勇知事が引退を表明した長崎県知事選挙に党内の慎重意見を抑えて出馬するも、同じく新人の金子原二郎に敗れ落選し補選出馬による国政復帰に意欲的だったが野田幹事長の反対で断念。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙に自由党公認で出馬するが、落選。 2001年(平成13年)7月、第19回参議院議員通常選挙に自由党公認で比例区から出馬し、当選。国政復帰を果たした。党参議院議員会長、参院会派「国会改革連絡会(自由党・無所属の会)」代表をつとめる。2003年(平成15年)、民主党との合流(民由合併)が決定すると、当初不参加の姿勢を示した。しかし最終的に参加を決断し、参院会派「民主党・新緑風会」常任役員・顧問に就任した。2006年(平成18年)、皇位継承問題で、皇室典範改正に慎重な立場を明らかにし、党内の保守系議員を中心に「皇室典範改正を慎重に考える会」を結成し会長に就任した。党内では渡部恒三と共に保守派の重鎮となり、党内の保守系議員で構成される永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会にも参加し、外国人参政権反対を表明した。 2007年(平成19年)8月、議員歴が長く、国会対策に精通している点が評価され、参議院議院運営委員長に就任した。 同月9日、西岡は「次の国会からクールビズの申し合わせを廃棄し、本会議場、委員会室での議案審議に際してはネクタイ着用を義務化したい」と提案した。「制服を着用して国会見学する子どもがいるのに、議員がリラックスした格好をしているのはいかがなものか」と説明した(8月10日付の各全国紙)。これに対して、すでにクールビズが3年目になり広く浸透しているし、参議院先例集にクールビズ以前の1951年(昭和26年)8月から半世紀以上にわたり「ネクタイは外してよい」という申し合わせがあるので、与党のみならず、他野党や身内の民主党内からも批判が出て、この提案を撤回することとなった。 この突然の提案については、環境大臣としてクールビズの旗振り役を務めたのが小池百合子であったので、民主党参院国対幹部の見方として「新進党、自由党と行動を共にしながら、自民党に移った小池に対する意趣返しではないか」といった見解も報道された。 2009年(平成21年)10月23日、岡田克也外務大臣が閣議の席で、国会開会式での天皇の「おことば」について「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えて欲しい」と宮内庁に求めたのに対し、「天皇陛下の政治的中立を考えれば、お言葉のスタイルについて軽々に言うべきではない。極めて不適切だ」と批判した。天皇の「おことば」の文面の検討は宮内庁の業務ではない。 2009年(平成21年)11月17日の記者会見で、2008年(平成20年)3月に武藤敏郎元財務次官を日銀総裁に起用する国会同意人事案に反対したことについて「当時の自公政権と対決するのが主眼であった」と説明し、「財金分離を理由に不同意としたのは、今でもおかしいと思っている」と語った。18日に江利川毅前厚生労働次官を人事院人事官に起用する政権の方針が「脱官僚に矛盾する」と批判を浴びているため、過去の過ちを率直に認めることで、江利川人事案に理解を求める狙いがあったと言われる。 2010年(平成22年)6月16日、国会最終日で野党が提出していた江田五月議長不信任案、菅直人内閣総理大臣問責決議案、荒井国務大臣問責決議案について、与党民主党の意向を受けて委員長職権で本会議を流会とし、国会最終日に参議院本会議が開かれない異例の事態となった。
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